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「日本人なら、日本舞踊をやるべき」なのか

「日本人なら、日本舞踊をやるべき」なのか

「日本人なら全員、日本舞踊をやるべきだ」という主張があります。

今日はこのことについて考えます。

私は大人になってから日本舞踊に出会いました。

忙しい日常に、ほんの週に1時間だけ、日本舞踊の稽古があることは、他に代えられない楽しみで、大げさではなく、「救われた」と思ったこともあります。いまでは「町の稽古場をもっと元気にしたい!」と、このメディアでの情報発信も他、日本舞踊教室のHPを作ったり、集客をはじめとする教室運営のサポートも行っています(詳しくはこちらの自己紹介)。

私は、より多くの人に日本舞踊に出会ってほしいと思っている一人です。いろいろな先生や日本舞踊関係者の方とお会いする中で冒頭のようなことを言われることがよくあります。

「日本人なら全員、日本舞踊をやるべきだ」

ここまででなくても、

「もっと多くの人に日本舞踊をやってほしい」

「日本人なんだから日本舞踊くらい知っていてほしい」

という意見とはよく伺います。これらの主張は当たり前だと思われますか。

もちろん、気持ちはわかります。しかし、ここでちょっと冷静になって考えてみたいのです。

「もっと多くの人」とは、具体的にどのような人で、どのくらいの人数なんだろうか

「日本人」の実態に照らし合わせて、現実的なのか

私は、この手の主張は、大きすぎる主語を掲げてしまったがために、むしろ現実を見えなくしてしまうリスクがあると考えています。

このような主張は、目の前にいる、すでに日本舞踊を習っている人を一般化して、まだ日本舞踊に出会っていない人も啓蒙すれば日本舞踊に興味を持つはずだ、というように画一的に捉えてしまうことにつながると考えています。

「日本人なら全員、日本舞踊をやるべきだ」

こう言うと元気が出る人もいるでしょう。確たる統計はありませんが、日本舞踊を習う人は年々減っているようです(日本舞踊協会の会員は年々100人以上減っています)。もっと日本舞踊を楽しむ人が増えてほしい・・・日本の人みんなが日本舞踊のすばらしさに気づいてくれたら?そう想像することは楽しいことかもしれません。

しかし、これは、実態とかけ離れた夢を見続けてしまうことにはならないでしょうか。

まず、「日本人」とは何か、「もっと多くの人」とは誰のことなのか。
ここについて、主に経済的側面から考えてみましょう。

日本舞踊にかかるお金

「日本舞踊はお金がかかる」とよく言われます。

ここでよくある、日本舞踊教室に通ったときの支出を考えてみます。

月謝 1万円

お浚い会参加費 3万円(年1回)

大きな発表会参加費 10~50万円(3年に一回)

残念ながら、日本舞踊教室に関して、全国的にそこでかかる支出を調査した統計は存在しません。なので、この数字は私が数十の教室(それも首都圏中に)を取材して得た情報を総合して作った架空の数字です(しかし、大きく外れていないと思います)が、このまま進めます(有意なデータをお持ちの方はぜひご連絡下さい)。

大きな発表会に補足すると、門下生が20~30人くらいの大きな教室になると、数年に一回、衣裳かつら付の大きな発表を行う場合が多いです。その場合、高額な費用(50万~100万円以上かかるということもしばしば)が必要になります。さすがにそこまでの支出ができる人ばかりではないので、素踊り(普段の着物や紋付など)で参加もできることが多く、その場合は10万円程度~で参加できます。もちろん選ぶ舞台のグレードや、裏方のスタッフさんの数などで変わります。

年間単位で見ると、

月謝12万円+お浚い会費用3万円=15万円 月あたり12,500円

3年単位、大きな発表会の参加費別に見ると、

月謝36万円+お浚い会費用6万円(2回)+大きな発表会10万円=52万円 月あたり14,444円

月謝36万円+お浚い会費用6万円(2回)+大きな発表会50万円=92万円 月あたり25,555円~

という計算になります。

ここから、毎月の習い事の費用に、14,444円~25,555円くらい支出できる日本人がどれくらいいるのか?ということを考えればよいことになります。

なお、プロを目指す方は当然、もっと舞台に登る機会が多く支出も増えますが、ここではそのような方は考慮に入れません。あくまで趣味として楽しむ人を対象に考えます。

日本人が教育・教養娯楽にかける費用はどのくらい?

総務省の家計調査から、一人暮らし~世帯、年齢別などで、ひと月あたりの教育費と教養娯楽費を見ると、おおむね、2万円~4万円の幅に収まっています。この金額の範囲が一つの目安となるでしょう(ただこれは平均なので、中央値だとこれより低い値の可能性があります)。

参考:一般的な生活費の内訳は? 家族構成別に見る一ヵ月の平均支出と家計の見直し方(和田 由貴)

「日本人」と一言で言ってもそれが指し示す範囲は非常に広いものです。日本舞踊を楽しめる経済的余裕がある人はどのくらいか?ということを考えるため、日本人の1世帯あたり所得の中央値のデータを見てみましょう。

引用:2019年国民生活基礎調査

所得とは、収入から経費を引いたもので、サラリーマンの場合、額面から給与所得控除を引いたものです。とはいえ、馴染みがない言葉だと思うので、とりあえず「ざっくり額面くらい」と捉えておいてください。

中央値とは、データを大きい順に並べた時の中央の値のことです。所得の統計においては、平均よりも実態に近い値が出ます。詳しく説明すると長くなるので、中央値について正しく知りたい方はこちらのページをどうぞ。

2019年の所得の中央値は437万円。賞与が2か月分出るサラリーマンを想定すると、

437万円÷14か月=31.21万円

月給約30万円、賞与が60万円。月の手取り約27~8万円

といったところでしょうか。

ちなみに、1世帯なので、夫婦共働きの世帯も合わせてこの金額です。
所得の中央値に関して、もう一つのデータを見てみましょう。

引用:平成11年国民生活基礎調査

 

2019年の20年前のデータです。このころの所得の中央値は544万円。同じ条件で月給を算出すると、

544万円÷14か月=38.85万円

月給約39万円、賞与が78万円。月の手取り約35~6万円

といったところでしょうか。

日本人の所得は下がり幅は大きく、手取りで8,9万円ほど下がっていることが分かります。その原因は生産性が向上していないことだとか、ITなど新しい産業への転換が遅れたことだとか、そもそもの人材育成、教育制度に問題があるとか、様々な説がありますが、ここでは踏み込みません。ただ言えることは、日本人の世帯所得は減少傾向にあり、一朝一夕ではこの傾向は変わらなさそうに見えるということです。

さて、もちろん、ここで考えたいのは、日本舞踊を習える経済的余裕がある人はどのくらいいるのか?ということです。

ここまで、

日本舞踊を習うためにかかる費用は、月14,444円~25,555円くらい

日本人の教育費と教養娯楽費は2万円~4万円の間くらい

ということが分かりました。十分、日本舞踊を習うには可能な数字ではあります。

一方で、日本は経済的に貧しくなっているように見え、今後は・・・未知数です。

富裕層はどうなっているか

「だから日本舞踊を習う可能性のある対象者はこれから減っていく」、と結論付けるのはまだ早い。

なぜなら、所得の中央値は下がっていても、富裕層が増えている可能性が残っているからです。経済格差が広がることは社会全体にとって望ましいことではないかもしれませんが、経済的に余裕のある人々が文化を支えるという考え方もあります。

引用:日本は「格差社会」になったのか-比較経済史にみる日本の所得格差-(2017 年 11 月森口千晶 一橋大学 経済研究所)

こちらのグラフは富裕層の所得割合を示したグラフです。日本はリーマンショック後、ゆるやかな上昇を見せた後、減少に転じています。他の国では、富裕層のさらなる富裕化が起きているのですが、日本ではそれが起きていません。

一橋大学 経済研究所の森口千晶氏は、「日本における格差拡大の特徴は、富裕層の富裕化を伴わない『低所得層の貧困化』」であるとし、「革新力の低迷」がその原因であり、その処方箋として「世帯よりも個人を、同質性よりも多様性を尊重する新たな制度を構築」することだと論じています。

さて、富裕層の拡大も望めないのだとすると、日本舞踊を経済的に楽しめる人はどんどん少なくなる未来が待っているようです。

「日本人なら、日本舞踊をやるべき」なのか

ここまでは仮説も含めたデータを元に、解説してきました。

「日本人なら全員、日本舞踊をやるべきだ」

という主張が、現実的に難しいことが分かってきたと思います。

特に、所得の中央値や、富裕層の実態を見ると、「より多くの人に」と行ったときに誰を対象に考えるべきなのか?ということがより具体的に見えてくるのではないでしょうか。

ここからは、こういうデータがあるが、これから先をどう考えるべきか?という話へ進んでいきたいと思います。

いくつかの選択肢が考えられますが、大きく二つに分けて考えてみたいと思います。

①対象者は減るが、いまの日本舞踊の在り方を維持

②より多くの人に日本舞踊ができるように変化する

多くの人がこのどちらかに賛同するのではないでしょうか。

①は、いまのやり方をそのまま継承するということです。この記事では主に日本舞踊の経済的側面から見てきましたが、やはり大きな発表会ともなるとお金がかかるものです。しかしそれこそ王道であるという考え方が一般的です。

地方さん、かつらやさん、衣裳やさん、顔師さん、それらすべて日本舞踊と一体不可分の文化なのだから、その発表会の形式は変えるべきではない。お金がかかると言われるかもしれないが、それは相対的にそう見えるだけであって、必要なことなのだ、という考え方です。

ここまで見てきた通り、日本人の所得は減少傾向にあり、富裕層も拡大はしていません。特に大きな金額が動く発表会ができる人は今よりさらに減っていくでしょう。しかし人数が減ることがすなわち悪いことではありません。どのような形で次世代へ継承していくか、という選択の問題だからです。

②は、「より多くの人」が日本舞踊をできるように変化しよう、という立場です。「華やかな大舞台至上主義」以外の立場を取ることも考えられるでしょう。

華やかな舞台を一つのゴールと捉えるのは、祭りや競技スポーツに似ています。年に一度、または数年に一度の祭りに向けて、神輿を作り、一夜で発散する、大きな大会のためにコツコツ練習して、優勝を目指す、祭りの一瞬、大会の一瞬、その一点を目指して努力するイメージです。祝祭性と言い換えてもいいかもしれません。

ここで、捉え方を生涯スポーツ的なものに変えることも考えられます。生涯スポーツとは、競争を目的としないスポーツの楽しみ方です。サッカーや野球でも、大会を目指すわけではなく、プレーそのものを楽しむ。もちろん、競争しないこととプレイヤーとしての成長は矛盾しません。日々の生活の中でジョギングやサイクリングを楽しむことなども生涯スポーツの良い例でしょう。

日本舞踊に置き換えると、日々の稽古そのものの重要性と価値を再認識し、舞台発表、特に祝祭的な舞台の位置づけを見直すことなどが考えられるのではないでしょうか。

「素踊りの魅力」という言い方もあります。「華やかなる大舞台」は歌舞伎の世界で、より大きな規模で実現されているものですが、素踊りは日本舞踊独自のものです。「素踊りの魅力」によりフォーカスして稽古や舞台の魅力やあり方を再構築することもできるのではないかと考えます。

そうなると、「華やかなる大舞台」は、プロ、またはプロ志向の人のためのものという位置づけに徐々に変わっていくでしょう。

①いまの日本舞踊を維持

②より多くの人に日本舞踊ができるように変化する

どちらの未来になるか、またはそれ以外の未来になるのかはわかりません。

いずれにせよ、より多くの人が賛同し、実現に向けて努力した未来が待っていると思います。この記事を読んでくださったあなたもぜひ周りの人と、これから日本舞踊はどんな風になるの良いのだろうか?と話してみてください。日本舞踊の未来を考える上で、この記事が一つの対話のきっかけになると幸いです。