日本舞踊「玉屋(清元)」のシャボン玉売りとは?詳しく解説!
日本舞踊で人気の清元「玉屋」。シャボン玉売りや蝶々売りの仕草や洒落づくしの内容が楽しいですよね。
玉屋に登場するシャボン玉売りは首からシャボン玉の箱を下げ、傘を持って登場します。「さあさあ お馴染みの(評判の)玉屋でござる なんでもかでも ふきわけてごらんにいれましょう まず玉の始まりは」という口上を述べ、いろんなシャボン玉を作って子供の心を惹きつけます。
そんなシャボン玉売り、実際にどのように活動していたのか?歴史的背景は?玉屋が生まれた経緯は?玉屋はどんな格好で売っていたのか?そのあたりを深掘りしてみました!
日本舞踊「玉屋(清元)」について
シャボン玉の歴史
シャボン玉は17世紀はじめにポルトガルから日本へ渡ってきました(ポルトガルといえば他にも、カステラやタバコ、金平糖などたくさんのものが日本に伝えられましたよね)。中国では唐の時代(618年〜907年)には似た遊びがすでに存在していたようで、水圏戯(すいけんぎ)とも呼ばれていたらしいです。ヨーロッパでも16世紀にはシャボン玉遊びが存在していました。ひょっとすると中国からシルクロードを経て、ポルトガル、日本へと伝わったのかもしれませんね。
日本でシャボン玉が流行はじめたのは、江戸時初期の寛文、延宝(1661~80)の頃からというのが定説です。つまり日本へ伝わって、すぐに人気の遊びとなりました。「近世商賈尽狂歌合」という書物には、享保年間(1716年~1736年)以前からシャボン玉売りが行われていたという記述があるそうです。特に流行ったのは幕末期。明治期までは行商人がシャボン玉を売り歩く姿が見られたそうです。
シャボン玉液の材料は、今では石鹸や洗剤、シャンプーなどを用いますが、当時石鹸は大変高価なもの。無患子(むくろじ)の実や芋の茎などを粉にしたものを素材としていました。
「玉屋」のいでたち
いずれも江戸時代の書物より。脚絆に草鞋(わらじ)にほっかむりという身軽な格好に、シャボン玉を入れた容器をもち、シャボン玉をふきながら市中を流しています。容器は手に持ったり首から下げたり。傘は目立つための、看板みたいなものでしょう。
こどもが手に徳利を持っているのは、シャボン玉液をそれに入れてもらうためでしょうか。
京都と江戸で違った「玉屋」の売り声
江戸の玉屋の売り声は、日本舞踊でおなじみ「たまやたまや」というものですが、京都では違ったようです。守貞漫稿という江戸時代に刊行された当時の文化・風俗辞典によると「ふき玉やしゃぼん玉、吹けば五色の玉が出る」というものだったそうです。売り文句としては京都の方が秀逸ですね。
「玉屋」を詠った川柳
江戸で大人気だった「玉屋」。川柳もたくさん詠まれています。その中からいくつかを紹介します。
人立の中からしゃぼんふいととび
街中の喧騒の、人々の頭のあいだからシャボン玉が飛んで出てきました。玉屋がシャボン玉を売りに来たか、それで遊ぶ子供たちか、いずれにしても子供の楽しくはしゃぐ声が聞こえてきそうです。
仙人と言う気どりなる石鹸吹
葦の茎を徳利から出してふいと吹くとあら不思議。虹色に光るシャボン玉が次々と空に飛んでいきます。目を真ん丸くする子供たちを前に、まるで仙人であるかのように、もったいをつけて売り口上を述べているのでしょうか。
ふけば飛ぶ裏や住まいのシャボン売り
砂盆玉売れぬ其の日は泡となり
仙人気取りでも住まいはみなと変わらぬ貧乏長屋。足を棒にしても売れない日もあります。
外でふくものさとしゃぼんおひ出され
シャボン玉を買ってもらった子供がうれしくて家の中で遊び始めました。あんまり騒ぐのか「外で遊びなさい」と追い出されてしまいました。
大好きなおもちゃに夢中になって遊ぶ子供の姿は、昔も今も変わりません。
玉屋(清元)について解説しました。みなさまのご参考になれば幸いです。
参考記事
清元「玉屋(おどけ俄煮珠取・おどけにわかしゃぼんのたまとり)」歌詞と解説 – 俺の日本舞踊
江戸の蝶々売りってどんな姿だったの?清元「玉屋」「玉屋と蝶々売り」 – 俺の日本舞踊

