日本舞踊・花柳流(はなやぎりゅう)について解説します【五大流派】

日本舞踊・花柳流(はなやぎりゅう)について解説します【五大流派】

数ある日本舞踊の流派の中でも最大規模を誇る花柳流(はなやぎりゅう)

その規模の大きさから、花柳流の動向に注目が集まることも多くあります。

この記事では花柳流の特徴や有名な演目、さらに歴史や花柳流の有名人について解説します。

花柳流は名実ともに、日本舞踊を代表する流派であり、その動向はしばしば大きな注目を浴びることがあります。

この記事では、そんな花柳流の特徴や歴史の概要、代表的な演目や有名人を解説します。

この記事でわかること

✓花柳流はリズミカルで華やか振付が特徴

✓花柳流の代表的な演目

✓花柳流の歴史

✓花柳流の有名人

花柳流は日本舞踊の流派の中では比較的新しい流派ですが、現在では2万人以上が所属しており突出した規模を誇っており、門弟や演目の数も非常に多いです。

今回は花柳流を知るうえで、押さえておきたい基礎知識を解説していきます。

1.花柳流の特徴

花柳流の特徴は振りが多く「小間(細かい間のリズム)」を重要視していることです。

その「小間」が全体に大きなうねりを形成し、花柳流の舞踊をリズミカルで大変華やかなものにしているのです。

このことは手数が少なく、ダイナミックで見ごたえのある藤間流の舞踊とよく対比されています。

また、旋回運動を主とする「舞」よりも跳躍に重きを置く「踊り」を重視していることも花柳流の特徴と言えるでしょう。

2.花柳流発祥の代表的な演目

花柳流は非常に多くの演目を生み出してきました。

ここではその中でも特に人気が高く、代表的な3つの演目をご紹介します。

2-1.長唄「連獅子」

長唄「連獅子」は「獅子は我が子をあえて谷底に突き落とし、自力で這い上がったものだけを育てる」という獅子の子落とし伝説をモチーフとした演目で、初代・花柳壽輔(じゅすけ)が振付を手がけました。

歌舞伎らしい派手な隈取と衣装、迫力満点の曲調で今日でも非常に人気の高い演目となっています。

親獅子と子獅子を実際の親子の役者が演じることも多く、親子での襲名披露興行でで好んで演じられる演目です。

2-2.長唄「船弁慶」

船弁慶(豊原国周)

長唄「船弁慶」は能の同名演目を舞踊化した作品で、こちらも初代花柳壽輔が振付しています。

「船弁慶」というタイトルですが弁慶はむしろ脇役で、実質的な主役は源義経の恋人である静御前と義経に滅ぼされた平知盛の2人です。

特徴としては義経を深く愛する静御前と、恨みを持つ知盛という相反するキャラクターを一人の役者が演じ分けることがあげられます。

そのため、華やかさと豪快さが観客に感動を与える一方で、演者の力量が問われる演目となっています。

2-3.長唄「黒塚」

能楽百番 安達ケ原または黒塚(月岡耕漁)

長唄「黒塚」は人を獲って食べるとされる安達ケ原の鬼婆伝説を題材とする演目です。

二代目・花柳壽輔が振付をし、二代目・市川猿之助(初代・猿翁)が初演しました。

それまでも安達ケ原の鬼婆は、能や歌舞伎など多くの芸能のモチーフとなっていましたが「黒塚」では従来のように鬼婆を単なる妖怪として描かず、自らの悪行に苦しみ、救いを求める鬼婆の人間性を深く掘り下げ見事に描写しています。

初代・猿翁が得意とした「猿翁十種」の一つに選ばれ、澤瀉屋(おもだかや)のお家芸として著名であると同時に、昭和舞踊の傑作と高く評価されている演目です。

3.花柳流の歴史

現在2万~3万人が所属すると言われ、名実ともに日本舞踊界最大の流派である花柳流。

しかし、花柳流がここまで成長するまでには多くの困難がありました。

ここでは花柳流の誕生から現在までの歴史を、歴代の家元の活動を中心に解説していきます。

3-1.花柳流の誕生と全盛期「踊りは花柳」

花柳流の創始者・初代・花柳壽輔は1821年江戸の玩具商の家に生まれ、吉原の仕出屋に養子に出されます。

6歳から西川流について舞踊を始め、やがては跡取りに目されるほどに成長しますが、西川流の後継者争いに巻き込まれ破門されてしまいました。

破門後は吉原に戻り芸妓に舞踊を教えていましたが、その後、花柳流を名乗り独立。歌舞伎舞踊の振付を手がけるようになります。

ちなみに「花柳」姓の由来はは吉原で舞踊を教えていたことから「花柳の廓」からとったと言われています。

「東都名所 芝居町繁榮之圖」(歌川広重)

元々、相当の技量を持っていた初代・壽輔は徐々に活躍の場を広げていき、ついには江戸三座*全てで振付を手がけるようになりました。

*江戸三座 江戸で歌舞伎興行が許されていた三つの芝居小屋(中村座・市村座・森田座)を指す。

江戸から明治に時代が変わると、初代・壽輔の創造性はますます冴えわたるようになり「ガス灯」をはじめ、新たな風俗を取り入れた舞踊作品を次々と発表してゆきます。

さらに、これまで良くも悪くも荒唐無稽だった舞踊に近代的なリアリズムを取り入れ、今日に至る日本舞踊の基礎を作りました。

こうした初代・壽輔の大活躍を背景として、明治初期に花柳流は全盛期を迎え「踊りは花柳」と謳われるほどになります。

3-2.衰退と中興「團十郎との対立」と「花柳舞踊研究会」

押しも押されぬ日本舞踊の名門として君臨していた花柳流ですが、初代・壽輔の存命中から徐々に勢いを失っていきます。

理由は初代・壽輔の厳格で誇り高い性格でした。

まず、才能豊かな門弟であった花柳芳松と舞踊への意見をめぐって対立し、初代・壽輔はついに芳松を許すことなく1893年に破門してしまいます。

破門された芳松は花柳流から独立して若柳流を創設。若柳流は瞬く間に勢力を拡大していき、花柳流の勢いに陰りが出てきます。

さらに決定的だったのは九代目・市川團十郎と対立したことでした。

九代目・市川團十郎(国立国会図書館のウェブサイトより)

当時、歌舞伎界のトップ俳優で歌舞伎舞踊を本質的に改革しようとする九代目・團十郎と、あくまで本質を守ろうとした初代・壽輔は真っ向から衝突。團十郎は初代・壽輔を振付から外し、代わりに藤間流の二代目・藤間勘右衛門を振付師として招きました。

こうして藤間流が飛躍のきっかけを掴んだのに対し、花柳流は大きく凋落してしまいます。

さらに初代・壽輔が死去した時、跡継ぎの芳次郎はわずか10歳と花柳流は存続の危機に立たされます。

この苦境の中、奮闘したのは芳次郎が成長するまで家元を預かっていた花柳徳太郎です。

徳太郎は「柳桜会」を立ち上げ、門弟の育成に力を注ぎました。

柳桜会からは初代・花柳寿美(すみ)や花柳珠實(たまみ)をはじめとする若く才能あふれる舞踊家を輩出し、花柳流復興の足掛かりとなります。

芳次郎が成長し二代目・花柳壽輔となると、折から盛んになっていた新舞踊運動から刺激を受けて既存の舞踊に囚われない新たな舞踊の創造を志します。

名門・花柳流のベテランたちは挙って二代目・壽輔に反対しますが、若手の支持と二代目・壽輔の強い決意によって「花柳舞踊研究会」が発足。

花柳舞踊研究会は試行錯誤しながらも意欲的な作品を次々と発表し、日本舞踊の一大拠点となりました。

こうして花柳流は見事に復権を遂げ、日本中に多数の門弟を抱えるほど発展します。

3-3.日本舞踊の普及を目指して

二代目の後は長女の若葉が三代目・壽輔となりました。

三代目が壽輔を継いだのは戦後の高度成長期にあたり、娯楽の多様化に伴って日本舞踊の地位が相対的に低下していった時代です。

こうした中、三代目・壽輔は子どもたちに日本舞踊を広めることに力を注ぎ、日本各地の幼稚園・保育園で舞踊の無料講演会を開催したり、童謡に振付をほどこした子供向けの舞踊数多く制作しました。

また、花柳流名取の花柳千代(ちよ)が「日本舞踊の基本を学ぶ会」を、花柳寿南海(としなみ)が「花柳寿南海とおどりを研究する会」を立ち上げ、数多くの門弟を指導して花柳流を広めていきます。

三代目・壽輔の死後はいとこの寛が四代目・壽輔を襲名しますが、この時に三代目の後継者をめぐってお家騒動が勃発。花柳流は思わぬ形で注目を浴びてしまいました。

四代目・壽輔は若手の育成に励みながらも旺盛に創作を続け、襲名前から一万曲以上の振付を手がけました。

四代目は早々に後を孫の創右(そうすけ)に譲り自身はその後見役を務めています。

五代目・花柳壽輔は先代たちの様に国内に向けて日本舞踊の普及活動に取り組む一方、外国人向けのワークショップを開くなど海外に向けての活動も積極的に行っています。

4.花柳流の有名人

日本舞踊の流派の中で最も多い門弟を有する花柳流。

ここではその中でも代表的な有名人5人をご紹介します。

4-1.花柳千代(はなやぎちよ)

花柳千代は1924年に東京の商家で生まれ、6歳で花柳流に入門し16歳で名取になりました。

1945年に「八千代会」を旗揚げし日本舞踊の研究を本格的に始め、1951年には「花柳千代舞踊研究所」を設立。特に日本舞踊の基礎稽古の研究に熱心で、自ら多くの門弟を指導する傍ら、文化庁オペラ研修所や新国立劇場の研修生に日本舞踊を指導しました。

また、日本舞踊の稽古に関する著書も多く発表しており、中には外国語に翻訳されているものもあります。

日本舞踊の海外普及にも力を入れており、アメリカや中国等で積極的に公演を行っています。

4-2.初代・花柳寿美(はなやぎすみ)

初代・花柳寿美は1898年に岐阜県で生まれ、4歳で西川流の日本舞踊を学びます。その後12歳で上京し花柳流に入門しました。

当初は芸妓として生活しながら舞踊に励んでいた初代・寿美ですが、踊りの才能と美貌を兼ね備えていたことで早くから頭角を現し、花柳舞踊研究会を中心に活躍しました。

1925年に芸妓を廃業し、自らの舞踊会である「曙会」を立ち上げ、舞踊家活動に専念。意欲的に活動を展開します。

「曙会」はこれまでにない斬新な衣装と壮大で華麗な舞台美術が特徴で、見るものを大いに楽しませたと言います。

また、オーケストラを用いた作品も多数発表したり、当時真新しかったレコードを研究するなど新たな舞踊の確立に生涯を捧げました。

4-3.花柳珠實(はなやぎたまみ。のち、五條珠實)

花柳珠實は舞踊家の尾上幸右衛門の養女として1899年に生まれ、後に花柳徳太郎に師事しました。

徳太郎の弟子として柳桜会に参加した珠實は、新たな舞踊の振付を任され「惜しむ春」「春信幻想曲」といった傑作を生み出し、期待に応えます。

また、舞踊会「珠實会」を主催し日本の古典や洋舞の研究、童謡舞踊の創作を行い新たな舞踊の確立に務めました。

後に、独自の舞踊を追求するため、花柳舞踊研究会を脱退。五條流(ごじょうりゅう)を立ち上げますが、この時二代目・壽輔は快く送り出したと言います。

4-4.梅沢富美男

歌手やタレント、コメンテーターなど幅広い芸能活動を展開している梅沢富美男。

しかし、本業は大衆演劇(江戸時代から続く庶民的な演劇)の劇団「梅沢劇団」の座長で、自身も舞台に立っています。

梅沢富美男の真骨頂は優雅で艶やかな女形の演技ですが、そのルーツは花柳流の名取であった母・龍千代から舞踊の稽古と女性らしい所作を徹底的に叩き込まれたことにあります。

現在も「梅沢劇団」の公演で舞踊を披露しているほか、次女も花柳流の名取として活動しています。

4-5.檀れい

女優の檀れいは花柳流の名取としても活動しています。

宝塚歌劇団に所属していた時に日本舞踊と出会った檀れいは、宝塚退団後も多忙な女優活動の傍ら稽古に励みました。

2011年にはNHK教育テレビ(Eテレ)の教養番組「にっぽんの芸能」にレギュラー出演し、日本舞踊をはじめとする日本の伝統芸能を紹介していました。

2018年に花柳流の名取として「花柳萩蝶(はなやぎはぎちょう)」の名をもらい、舞踊会に積極的に出演しています。

5.まとめ

名実ともに、日本舞踊を代表する流派である花柳流の特徴や歴史の概要、代表的な演目や有名人を解説しました。

リズミカルで華やか振付が特徴の花柳流は、「連獅子」「船弁慶」「黒塚」など多くの名作を生んでいます。

一代で花柳流の名を世に知らしめた初代・花柳壽輔をはじめ、多くの優秀な家元、人材が活躍し、数ある日本舞踊の流派の中でも最大規模を誇るまでになりました。人材の層も厚い花柳流は、今後も日本舞踊をけん引していくことでしょう。

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参考文献

郡司正勝・編「日本舞踊辞典」 東京堂出版 1977
柴崎四郎・著「通史花柳流 花の流れの一世紀」 自由国民社 1985
西形節子・著「近代日本舞踊史」 演劇出版社 2006
藤田洋・著「日本舞踊ハンドブック改訂版」 三省堂 2010


この記事を書いた人:石川りんたろう

大学で演劇学を専攻し歌舞伎について研究する傍ら、社交ダンス部に所属していた。大学卒業後、会社員時代を経て現在はフリーランスのライターとして活動中。ダンス記事の制作を通して日本舞踊に興味を持ち、調べていく中でその奥深さに魅了される。日本舞踊の世界に触れて間もないが日々勉強中。好きな演目は「三社祭」。

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