日本舞踊・若柳流(わかやぎりゅう)について解説します【五大流派】

日本舞踊・若柳流(わかやぎりゅう)について解説します【五大流派】

今回は若柳流(わかやぎりゅう)の特徴や歴史の概要、代表的な演目や有名人を解説し、最後に若柳流を習える教室もご紹介しています。

若柳流は五大流派の一つで日本舞踊を代表する流派ですが、歌舞伎と密接に結びついてきた他の流派とは異なる歴史を歩んできた流派です。

この記事でわかること

✓若柳流は振りが多く繊細で優美な振付が特徴
✓若柳流の歴史や代表的な演目、有名人
✓若柳流を習える教室

若柳流は他の流派と比べると歴史が浅い流派ですが、創流から短期間で五大流派の一つに数えられるほどに発展しました。

また、花街に基盤を置いてきた若柳流は、早くから地方に進出しており、歌舞伎舞踊と結びつき江戸を中心に発展してきた他の流派とは異なる歩みを遂げています。

今回はそんな若柳流の基礎知識について解説していきます。

1.若柳流の特徴

若柳流は他の流派と異なり、創流当初から花街に基盤を置いて発展してきました。このため、繊細で優美な振付が大きな特徴となっています。

また、早くから地方への進出も積極的に行っていたことから、様々な地域で若柳流が振り付けた踊りが伝わっています。

この二つの特徴について以下で詳しく解説していきます。

1-1.繊細で優美な振付

これまでたびたび言及しているように、若柳流は花街に基盤を置いて発展してきたという背景があります。

このため、歌舞伎の舞台と強いつながりを維持しながら発展した他の流派が、舞台映えするダイナミックさが強いのに比べ、若柳流はより繊細で優美な振付を特徴としています。

また、若柳流は花柳流から分離・独立した流派であることから、花柳流の手数の多さも受け継いでいることも若柳流の特徴と言えるでしょう。

1-2.様々な地域で根付く若柳流の踊り

現在の柳橋・隅田川近辺

東京・柳橋の花街に拠点を置いた若柳流は、花柳界のネットワークを用いて早い時期から地方への進出を推し進めてきました。

このため、現在でも京都市宮川町や岩手県盛岡市、高知県高知市などの芸妓の間では若柳流の踊りが主流となっています。

また、お祭りの踊りの中にも若柳流が振付したものもあり、代表的なものに富山市の「おわら風の盆」や大阪・梅田の「梅田ゆかた祭り」高知市の「よさこい祭り」があげられます。

2.若柳流の代表的な踊り

若柳流は歌舞伎の舞台から離れて発展してきた流派であるため、若柳流の発祥で舞台で踊られる舞踊の演目はあまり多くありません。

しかし、数少ない演目の中にも現在に伝わる優れた作品があります。

また、早くから地方に浸透していったことから、若柳流の振付によるお祭りの踊りも多くあります。

ここでは若柳流の踊りの中で特に著名な2つの踊りと、若柳流とゆかりの深い京都市宮川町の『京おどり』をご紹介します。

2-1.長唄「紀州道成寺」

長唄「紀州道成寺」は、その名の通り紀州(今の和歌山県)の道成寺に伝わる安珍・清姫伝説を題材とした演目です。

安珍・清姫伝説とは、思いを寄せていた僧・安珍に裏切られた清姫が憎しみのあまり蛇に変化し、道成寺の鐘ごと安珍を焼き殺すという内容で、能や浄瑠璃などでも好んで取り上げられています。

「紀州道成寺」は1925年に若柳吉三郎によって振付がなされ、三代目・中村時蔵が披露したものが好評を得ました。

格調高く堂々とした曲調と若柳流の艶麗な振付が見事に調和した演目で、今日でも度々上演されている演目です。

参考記事:安珍と清姫の物語【道成寺もののルーツ】

2-2.富山市の「おわら風の盆」

北陸・富山市の夏の風物詩である「おわら風の盆」で踊られる「新踊り」の振付も若柳吉三郎によるものです。

「新踊り」は農作業の動作を舞踊化した勇壮な男踊りと、蛍狩りの様子を描いた上品な女踊りに分かれており、それぞれが富山市に伝わる民謡「越中おわら節」に乗せて踊られます。

「おわら風の盆」は毎年約25万人もの観光客が訪れる北陸を代表する夏祭りとして、現在も多くの人を魅了しています。

参考リンク:越中八尾「おわら風の盆」

2-3.京都・宮川町の「京おどり」

京都の花街・宮川町で4月に上演される舞踊公演「京おどり」も、若柳流の家元が毎年振付を手がけています。

宮川町は安土桃山時代から続く由緒ある花街で、宮川町の芸妓や舞妓は踊りや唄に秀でていることで有名です。

「京おどり」では宮川町の芸妓が全員出演し、踊りや演奏、唄を披露するのが最大の特徴となっています。

踊りは毎年新曲が発表され観客を楽しませ、フィナーレの「宮川音頭」は芸妓たちの総出演による群舞となっており圧巻です。

3.若柳流の歴史

若柳流が誕生したのは明治になってからで、他の五大流派に比べると歴史が浅いですが、それでも100年以上の歴史を有しています。

ここからは100年以上にわたる若柳流の歩みについて、ポイントを押さえながらに解説していきます。

3-1.若柳流の創流

若柳流の創始者・初代・若柳壽童(じゅどう)は本名を若林勇吉といい、1845年に生まれ12歳で初代・花柳壽輔(じゅすけ)に入門。わずか15歳で花柳芳松の名を与えられます。

この「芳松」という名前は初代・花柳壽輔の幼名であることから、初代・花柳壽輔は勇吉に大きな期待を掛けていたと言えるでしょう。

初代・壽輔の期待通り、芳松は多くの振付を手がけ花柳流でも屈指の実力者となりますが、舞踊に対する意見の相違がきっかけで初代・壽輔と対立します。

周囲は初代・壽輔と芳松をなんとか和解させようとしますが、厳格な性格の初代・壽輔はついに芳松を許すことなく1893年に破門してしまいました。

破門された芳松は本名とそれまでの芸名を合わせて「若柳吉松」(のち、若柳壽童)と名乗り若柳流を興しました。

初代・壽童は劇場の振付から距離を置き、東京の花街・柳橋を拠点に花柳界を中心に勢力を広げ、若柳流の基礎を築きます。

この基盤を受け継ぎ若柳流を大きく飛躍させたのが、二代目の家元・若柳吉蔵でした。

3-2.全盛期の若柳流

若柳吉蔵は落語家の三遊亭圓遊の子として生まれ、12歳で西川流に入門し舞踊を習いますが、その後一旦舞踊を辞め、落語家や新派の俳優として活動します。

しかし、落語でも新派でも上手くいかず再び舞踊の道に戻り若柳流に入門しました。

若柳流に入門した吉蔵は、みるみるうちに頭角を現し、初代壽童の没後には家元を継ぎます。

踊りは初代壽童に勝るとも言われ人格者でもあった吉蔵のもと、若柳流は北は北海道から南は九州、さらに朝鮮や満洲にまで勢力を拡大する一方、「日本舞踊若柳学園」を設立し、子どもたちにも日本舞踊を広めていきました。

また、初代吉蔵は従来の舞踊に囚われない新たな舞踊の創作と、古典の研究の両立を目指した「若柳舞踊研究所」を設立し、数多くの野心的な演目を発表。

新興勢力だった若柳流を日本舞踊を代表する流派へと押し上げ、若柳流に全盛期をもたらしたのでした。

3-3.一門の分裂と現在の若柳流

若柳流を大きく躍進させた初代・吉蔵には、若柳吉輔と若柳吉三郎という両腕と呼ぶべき高弟がいました。

この3人によって率いられた若柳流は前述の通り、全盛期を迎えますが、1940年に若柳吉三郎が、1943年に初代吉蔵が没してしまい有力者を立て続けに2人も失ってしまったため、若柳流の繁栄に陰りが見えてきます。

1945年に初代吉蔵の息子である寿邦(二代目壽童)が家元を継ぐことになりますが、当時24歳の若年であったこととに加え、太平洋戦争の敗戦による将来への不安もあり流派内では家元制を廃止し、新たに理事制を採用する声が高まりました。

二代目・壽童は始め理事制を採用することに賛成しましたが後に撤回。その結果、理事制を求める門弟たちは吉輔らを中心として家元から独立し、理事制を採用する「正派若柳流」を立ち上げます。

さらに関西の若柳流を統括していた二代目壽童の姉・若柳吉世も独立し「若柳流西」を興しました。

こうして戦後の混乱期に3つに分裂してしまった若柳流ですが、宗家の二代目・壽童は戦災が少なかった京都へ拠点を移し、私財を投げうって全国各地でチャリティ公演を開催。日本舞踊の普及に邁進します。

この二代目・壽童の努力の甲斐もあり、若柳流宗家は復興を遂げ再び隆盛へと向かいました。

二代目・壽童の死後は妻の豊子が家元を務めますが、長男の若柳壽延は別派を興し、現在は次男の三代目若柳吉蔵が宗家の家元を務め、海外にも精力的に公演を行っています。

4.若柳流の有名人

100年以上の歴史を有し、現在も多くの門弟を抱える若柳流。

ここでは若柳流にゆかりのある代表的な人物3人をご紹介します。

4-1.初代・若柳吉三郎

惜しまれつつ若く亡くなった才覚者

初代・若柳吉三郎は1891年に東京の京橋で生まれ、初代・壽童に師事し18歳で吉三郎の名を許されました。

初代・吉蔵からは柳橋の地盤を任されるなど非常に厚く信頼されていました。

若柳舞踊研究会の創立に携わり、日本舞踊で初の「紀州道成寺」振付けし、若柳流の代表作とする傍ら自身の舞踊研究の場として「舞踊座」を結成。新形態作品「ラグビー」や演劇と舞踊の中間と称される「伊勢音頭」を発表します。

また、先述の「おわら風の盆」の新踊りの振付を手がけたのも、この若柳吉三郎です。

若柳吉輔(のち若柳壽慶)と共に初代・吉蔵を支え若柳流を飛躍させますが、1940年に39歳の若さで世を去りました。

4-2.若柳壽慶(じゅけい)

正派若柳から独立、「直派(じきは)若柳流」をたてる

若柳壽慶は若柳吉三郎と同じ1891年に東京で生まれました。

始めは大工の徒弟をしていましたが、20歳の時に初代・吉蔵に入門し、以後はその片腕として大いに活躍します。

1913年に吉輔の名前をもらい、新興家庭舞踊発表会を立ち上げ各家庭へ日本舞踊を普及させることを試みました。

戦後、二代目・壽輔が家元を継承するにあたり「正派若柳流」を立ち上げ宗家と袂を分かちます。

1971年に正派若柳流内で派閥間の対立が起こったため、自身の門下を中心に「直派若柳流」を結成しました。

振付にも才能を発揮し「勝鬨」「江戸の春」「江戸の夏」など多くの演目を制作しています。

4-3.土屋太鳳(つちや たお)

大河ドラマでも活躍の若手女優

女優として活躍している土屋太鳳は3歳で若柳流に入門し日本舞踊を習っていました。

バレエも同時に習っており、どちらかというと日本舞踊は苦手だといいますがNHK大河ドラマ「龍馬伝」など、着物を着る役を演じるときに不安なく動けるのは日本舞踊の経験があったからだと語っています。

2017年のロッテ「キシリトールガム」発売20周年記念プロジェクトで制作されたショートムービー「みらい舞踊 竹取物語2017」では、実際に日本舞踊を踊る土屋太鳳の姿を見ることができます。

5.若柳流を習える教室

最後に若柳流を習うことのできる日本舞踊教室を紹介しますので、興味のある方はぜひ参考にしてみてください。

若柳喜美奈(わかやぎきみな)日本舞踊教室~神奈川県横浜市

参考文献

郡司正勝・編「日本舞踊辞典」 東京堂出版 1977

藤田洋・著「日本舞踊ハンドブック改訂版」 三省堂 2010

この記事を書いた人:石川りんたろう

大学で演劇学を専攻し歌舞伎について研究する傍ら、社交ダンス部に所属していた。大学卒業後、会社員時代を経て現在はフリーランスのライターとして活動中。ダンス記事の制作を通して日本舞踊に興味を持ち、調べていく中でその奥深さに魅了される。日本舞踊の世界に触れて間もないが日々勉強中。好きな演目は「三社祭」。

 

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