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【取材】私は機械で三味線を弾く~日本舞踊の音響(有)トーゲー・本山久光さん~

【取材】私は機械で三味線を弾く~日本舞踊の音響(有)トーゲー・本山久光さん~

2020年6月10日、日本舞踊界で知らない人はいないであろう、会社のひとつを訪れた。それは有限会社トーゲー(旧社名、東芸社)」。日本舞踊の音源・舞台音響の会社だ。そのトーゲーの社長、本山久光さんに話を伺った。

本山さん。仕事道具のオープンリールデッキの前で

「音響」というと、エンジニア、技術屋さん、というイメージがある。舞台の音だけのエキスパート。

しかし本山さんの仕事は単なる「音響」という言葉ではくくれないものだ。

足りない音があれば自ら三味線を弾き、台詞も入れて音作りまで行う。本番では、あらゆる事態を想定しつつ、舞踊家さんとともに一緒に舞台を作り上げる。

取材を通じて、本山さんがいるのは、技術の世界ではなく、間違いなく「芸の世界」だと思った。

そんなこの道一筋、50年の本山さん仕事とは。

「日本舞踊の音響」の世界に入るきっかけ

膨大な音源データから、舞踊家さんが必要なものを提供している

本山さんがこの世界に入るきっかけは、幼少期にまでさかのぼる。

ルーツは生まれ育った池袋にあった花柳界だ。

本山さんのご実家は池袋の八百屋さん。当時は池袋に花柳界が残っており、子供だった本山さんは、実家の八百屋さんが忙しい昼間は、芸者街の見番に遊びに行っていた。そこで三味線やお囃子のお稽古を見て、遊んでもらっているうちに、「こうやってやるもんだよ」と教えられ、自然と芸を覚えていった。

「今の子のゲームが、私にはお稽古だった。」

と本山さんは言う。

初舞台は3歳、東急百貨店の前にあった渋谷の「東横ホール」で行われた新劇の舞台だった。それからずっと、芸事の世界にいることになる。

*東横ホール 1954年から1985年まで建物内にあった劇場。歌舞伎公演などが行われていた。なお、東急百貨店は2020年3月で閉店。再開発で2027年に渋谷スクランブルスクエアに生まれ変わる予定。

15歳で導かれるように踊った「幻お七」

音響の仕事につくきっかけは?という質問に、本山さんは15歳の時のエピソードを語ってくれた。

15歳のとき、『幻お七』を、ああ、やりたいな、と思って、踊ったの。実家がたまたま八百屋で、それもたまたま冬だった。お七も15で磔になってるでしょう」

*「幻お七」 八百屋の15歳の娘お七が、恋をした寺小姓・吉三にまた会いたいがために江戸の町に放火をして、磔に処される物語

「そのとき『あんた将来どうするの?』って聞かれて、『できれば踊りや、芝居の世界に行きたい』と答えたらしいの。覚えてはないんだけど」

15歳で導かれるように踊った「幻お七」。そこで使ったのは、たまたま東芸社のテープだったそうだ。その3年後、再び東芸社と縁がつながる。

アルバイトから東芸社へ。舞踊界の最盛期を経験

18歳の大学生だった本山さんは、出演した舞台に居合わせた東芸社の社員にアルバイトしないかと声をかけられる。舞台で、役者さんがお芝居のきっかけを覚えるための速記の仕事だった。

「役者さんが覚えるきっかけ、ここで入ってきて何を渡すとか、ここで肌脱ぎをする、とかここで草履を脱ぐ、とか、それを速記するアルバイトしない?って。」

面白そう、と思ってアルバイトを始め、卒業後も自然な流れで東芸社へ入社した本山さん。

当時は舞踊会も多く、多いときでは年に120本もの公演を手がけていた。

「いまは1/3か1/4に減っちゃいましたけどね、土日なんてそこらじゅうで舞踊会やってました。当時は大手町に5つも劇場があって、サンケイホール、日経ホール、農協ホールが三つ並んでて。大道具さんが一社しかないから、ホールのあいだを松を持って走りまわってました。『松が足んないから』、って笑。地方さんなんかも次の公演に間に合わないから、番組変えてもらったりね。そういう時代だった。」

日本舞踊の音響の仕事とは?

最盛期から減ったとはいえ、いまでも年に30本以上、全国の舞台をこなすトーゲー。具体的なお仕事内容を伺って驚いたのが、そのハードさと専門性の高さ。

オープンリールと再生デッキをもって舞台に入り、リハーサルで出演者の踊りを覚える。チャンスはこの一回のみ。

以前は、一度お稽古場へ行ってツボ合わせを見て覚えたそうだが、最近では本番当日の衣装合わせだけしかしない稽古場が増えたからだ。後見がつく場合は、ここで後見の息の合わせ方まで覚える。

*ツボ合わせ 本番前に、音と踊りのタイミングなどを確認するために行うリハーサル。

「後見さんも、早く出る後見さん、遅く出る後見さん、音に忠実な後見さん、一拍早く渡す後見さん、色々いるんですよ。」

「なので、誰でも同じ音では無いのです。その場その時に何かしら繋いで、結果、同じ音に成る様にするので」

複数のデッキを駆使して、音が途切れないように、踊り手が気持ちよく踊れるように、音楽を巧みに操るのが本山さんの仕事だ。

そして、それには踊り手の振りを覚えることが当然、必要なのだ

大きな流派ならある程度振りが決まっている。しかし、もちろんそういうパターンばかりではない。知らない振付に出会うこともあるし、自分で振りをつけてくる人もいる。そういう場合もリハーサルで全部チェックして覚えなければならない。

大きな舞踊会になると、演目の数も数十曲に及ぶこともある。そういう場合はどうするのか。

「それもリハーサル見て全部覚えるの。これをやったからと言って偉いわけでも何でもないし、頼まれた仕事を100%やって当たり前。

「音響の仕事は、クリアな音、聴かせる音を流すことじゃないんです。音が悪かろうが関係ない。踊ってる人の、踊りに合わせてあげるのが音響の仕事。地方さんと一緒

簡単に言うと、踊る人に合わせるの。ポンっとボタンを押して、ずうっとそのまま、じゃないの。ずーっと見てるの。踊ってる人が遅れてたら音を止めなきゃなんない。でも止めちゃうと音楽が止まっちゃうからわからないように、そうならないようにうまく調整してあげる。あくまで踊ってる人が気持ちよく踊れるように。」

本山さんの仕事は、知らない人はそういうものかと、むしろ意識にのぼらない仕事だ。しかし、分かる人にはわかる。やはり舞踊界、歌舞伎界の大御所の方々、この仕事の「すごさ」が分かる人は、終わった後、口々にお礼を言ってくれるそうだ。

苦労話も今になっては楽しい思い出

そして、本番にはアクシデントも不可避だ。これまで経験した現場で大変だったことは?

「最後なかなか極まらない人、振りを飛ばしちゃう人、台詞が飛んじゃう人・・・。扇子の要が折れてバラバラになっちゃって、その間をつなぐとか、着物が引っかかってセリが上がってこなかったりね。その間の音もつなげてね。事故は起こると思って準備してるから

「苦労話はたくさんあるけど、今思えば楽しい。本番が終われば、『ああ、やった!』ってね。」

言葉にすると簡単だが、これまで多くの場数をこなしてきたから本山さんだからこそ言える言葉だろう。

日本舞踊を学ぶ人たちへ

必要に応じて楽曲の編集も行う

日本舞踊を習っている若い人に伝えたいことを伺うと、先生を信頼すること、曲の意味を知ることの二つを挙げられた。

まずは先生を信頼すること。どんなにスターになったって、先生を超えることはできない。その先生のところから出たスターなんだから。それを忘れちゃだめ。」

曲の意味を考えることについては、

意味を知れば、こんなに面白い世界はないと思う。

昔はね、曲の意味に疑問を持つように、教えられてきたの。『こうやってごらん』、と言われてその通り踊ると『なんでそう踊ってるの?』って聞かれて、分からないと怒られる(笑)まるでなぞかけのよう。二代、三代前くらいの先生方はみんなそうだった。

今じゃありえないくらい厳しかったけど、自然と、何事にも疑問を持って、意味を考えるように教えられてた。

最近は、動きの意味とか、着物の柄とか、そういった意味を全部把握して教えている人は、多くないと思う。昔の人は教えてくれたし、自分も聞いたしね。」

本山さんの博識さは、他の先生が、こっそり意見を聞きに来るほどだ。

今の日本舞踊の世界は、衣裳やかつら一つとっても、踊り手が身に着けたいものを選ばせ、原作の背景や意味などが失われて、本来からかけ離れたものになっているところを目にすることが多くなっているという。教える方も、振りの一つ一つの意味まで教えることも少なくなりつつあるようだ。

「覚える方も簡単よね。振りさえ覚えればいいんだから」

本山さんのようにしっかりとした時代考証の元、振りや作品の背景、着物や小道具にわたるまで調べて知っている人から見ると、そのような今の日本舞踊界はどう映っているのだろうか。

「逆にね、いちどとことんまで壊れていったほうがいいと思う。それでね、昔はこうだったとか言っちゃだめ。昔は昔。一回ゼロにして、ゼロから考えはじめないと。

もちろん、本山さんは自分のお弟子さんには、歌詞をしっかり読み、意味を考えてもらうことを大切にしている。

「日本舞踊は、例えば五七五とか、和歌の世界だとか、いろんなものが入っていて面白い。月とか川とか風景に例えて愛情表現するとかね。ちゃんと聞いて、ちゃんと教えてもらえれば、こんな面白い世界なんてないと思う。

昔も今も、自ら学ぶ姿勢が重要なのは言うまでもない。

私はね、機械で三味線を弾くんです。

今日は、日本舞踊の音源と音響の会社、トーゲーの本山さんへお話を伺った。

「音を踊り手に合わせる」本山さんの仕事は、単に曲を流すだけではない。本山さんの言葉通り、

「地方さんと一緒」「私はね、機械で三味線を弾くんです。

こうなると、もはや一般的な「音響」という言葉で本山さんの仕事をくくっていいものかわからない。

私が本山さんの技術を「芸」だと言ったのはこれが理由だ。

それを裏付けるような、これも本山さんの言葉。

「これはいいのか悪いのか。この技術は伝えられないのよ。」

芸は一代というが、舞踊家さんと一緒に舞台を作り上げる本山さんの情熱と技術は、必ず誰かに受け継がれていってほしいと、強く願う。

本山さん、ありがとうございました!