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「名ばかり師範のヌルさ」の正体と原因

「名ばかり師範のヌルさ」の正体と原因

副業舞踊家は「ヌルい」のか。舞踊家と経済的自立
https://oreno-nihonbuyou.com/parallel/

この記事には多くの反響をいただいた。

ここでは「副業舞踊家は『ヌルい』」というステレオタイプを批判し、論理的に考えて、経済的自立は舞踊家としての技量や人格の完成の必要条件ではないという主張をした。

 

一方、いただいた感想で「個人としてのヌルさ」、ニュアンスとしては能力や知識の不足や芸に対しての向き合い方、というような意味での「ヌルさ」を多くの舞踊家、そして自分の中にも感じ、課題に感じている方からのものもあった。

 

一般論として「副業舞踊家は『ヌルい』とは言えない」というのが先の記事の主張だったが、もちろん個々人で見れば「ヌルく」活動している舞踊家、先生もいる。「名ばかり師範」という言い方さえあり、課題として一定の人が認知していると思われる。

 

今日はこの「名ばかり師範のヌルさ」の正体と、その原因の二つについて考えてみたい。

名ばかり師範とは

まず「名ばかり師範」を定義しておこう。

「流儀(流派)に属し師範資格を持っているが、何らかの理由で師範資格に値しないと考えられる人」といったん定義する。「何らかの理由」とは、技術や人格を差し、本来資格を付与する流儀の評価基準に準ずるべきであるが「名ばかり師範」と呼ばれるとき、それは流儀の評価ではなく、世間一般の評価という意味でもある。つまり、家元や流儀の試験官が「師範が『名ばかり師範化』している」と問題視するのではなく、そうではない人が「あの人は『名ばかり師範』だ」と批判するケースがあることに注意が必要だ。

 

私自身「名ばかり師範」という言葉は日本舞踊に関わりだして3年目くらいからたびたび耳にしており、その伝聞と自らの体験を元に、その問題について整理しておきたい。

舞踊の技術の不足

まず舞踊の技術の不足である。断っておくと、私自身は日本舞踊を踊ることに関してはイチ素人であり、個々人の舞踊家の優劣を公に論評する立場にない。

 

ここで問題とされているのは「師範」という肩書と技術の期待値のギャップのことだ。

 

師範は日本舞踊において実質、「最高位の資格」である。にもかかわらず、観客を満足させるだけの技術が備わっていないことが問題になる。

 

肩書は観客の期待値を上げる。

 

まったく同じ舞踊を見るのでも、あの舞踊家はまだアマチュアだ、と言われて見たものと、プロの最高位だ、と言われて見たものでは、受ける印象は当然違う。

 

悪い意味で期待を裏切ることが続けば、日本舞踊全体のレベルを疑われることになりかねない。これが一つ目の問題だ。

指導力の不足

次に指導者としての能力や資質についてだ。度々このブログでも、師範に指導者としての能力・資質を身に着ける機会がないことを指摘してきた。機会がないとはいえ、師範資格には「教授資格」も含まれるのであるから批判を免れるべきではない。指導力はそのまま日本舞踊という伝統芸能の継承者育成の良し悪しに直結する待ったなしの問題でもある。

「プロ」としての基礎知識の不足

ここでいう基礎知識とは日本舞踊の知識に限定されない。法律や取引、コンプライアンスなど「商売人」「ビジネスパーソン」としての知識を含む。契約書を交わしたことがない、インボイス制度を知らない、請求書を依頼したら税表記がまったくない、など私自身も日本舞踊業界の人と仕事をする経験からこのような方々に相対し、その必要性を感じている。

契約書を交わさないことでトラブルにつながったり(もちろん交わしたからと言って100%防げるわけではないが)、経理書類の作り方を知らず信頼を下げることなどが考えられる。

殊、日本舞踊業界は人間関係でも仕事関係でも業界内に閉じがちで業界内慣習が一般的な商習慣と乖離しているように見受けられる。

態度の問題

最後に取り上げるのは「態度」の問題である。知識や技術などと違い、態度は性格や人格とも混同されがちであるため、慎重にならなければならない。ここではここまで述べてきた「能力や知識の不足に対して自覚的で、改善しようとする姿勢」という風に定義したい。「謙虚さ」といってもいいかもしれない。例えば指導の現場において指導される側の変化を促すために、肉体的負荷や精神的緊張を強いることは時に必要である。としたときに、指導者自身も自分自身を変革していく態度を有しているかどうかは、自ずから相手にも伝わるものであって、指導の根幹に関わることではないだろうか。

問題の原因

ここまで名ばかり師範の「ヌルさ」を「技術(舞踊・指導)」「知識」「態度」の面から考えてきた。「名ばかり師範」が問題だとすれば、その原因はどこにあるのか。

一義的な原因は流儀にある

一義的には、師範を認定している流儀と言えるだろう。流儀が師範とは何かを定義し、評価基準を定め、認定しているからだ。

さらに言えば「師範」とは、流儀と、当の師範との間の取り決めなのだから、それ以外からの批判は的外れとも言えなくはない。認定機関自身が「問題なし」としている(沈黙している)わけなのだから。外野がとやかくいう筋合いはない、のかもしれない。

 

ではなぜ「名ばかり師範」が問題だという批判が存在するのだろうか。

日本舞踊は社会的な存在であり、すでに公共財である

「名ばかり師範」という批判も、もっともだと思える部分もある。それはなぜか。すでに日本舞踊は流儀のものだけではなく、社会的な存在であり、公共財とみなされているからだ。

 

文化芸術は,成熟社会における成長の源泉,国家への威信付与,地域への愛着の深化,周辺ビジネスへの波及効果,将来世代のために継承すべき価値といった社会的便益(外部性)を有する公共財である。

 

これは、「文化芸術の振興に関する基本的な方針-文化芸術資源で未来をつくる-(第4次基本方針)(平成27年5月22日閣議決定)」の中の一節である。

 

日本舞踊と言えば、体験した人はそう多くなくとも、名前と知らない人はほぼいないといっていいだろう。2023年には重要無形文化財にも認定された。

テレビや舞台で見かける俳優たちで日本舞踊の素地を持っている人は少なくない。そう言う意味でも、日本に住む人であれば知らず知らずのうちに日本舞踊の恩恵を多少なりとも受けている。流儀による専有ではなく、公共性がある、と皆が認識しているからこそ「名ばかり師範」という批判が生まれるし、説得力を持つのだ。

より良くするために

「名ばかり師範」の問題と、一義的な原因は流儀にあること、一方、問題には社会性もあるということを述べてきた。ここからは状況がより良くなるための道を考えたい。

批評の活性化を

一つ目は批評の活性化だ。「良い批評家は良い芸術家を育てる」このテーゼに反論の余地はないだろう。優れた芸術家はたとえ他者から批評されなくても自分のうちに批評家を住まわせているものである。

 

「名ばかり師範」は、何もなりたくて名ばかり師範になっているわけではないし、自覚がないだけというケースが多いだろう。舞踊の技術にしろ指導の技術にしろ、批評を活性化することで前向きな効果が期待できるのではないか。

教育環境の整備

ここからは流儀に期待することだ。技術向上や知識に関してはシンプルに教育環境を整えるだけでも効果があるのではないだろうか。これまでの舞踊技術偏重ではなく、指導技術やビジネスに関する知識の講習も取り入れるなどすることで師範の総合的な能力・資質が向上すると思う。

評価基準の明確化と再評価の機会を

もう一つ、評価基準の明確化と、併せて再評価の機会を提案したい。流儀は、日本舞踊が社会的なものである以上、「名ばかり師範」という世間の批判をまったく無視することは適切ではないと考える。

「師範」というものに何が期待されているのか、何が必要なのかという評価基準を明確にすることでより社会で活躍できる師範を育てることができる。また、資格は取って終了ではなく、そこから活躍の場を広げていくものだ。師範試験の時だけではなく、定期的に技術や知識の再評価を行うことで師範の水準を高く保つと同時に、活躍する師範の優れた点を把握し、未来の師範たちへの教育に還元することができるだろう。

まとめ

「名ばかり師範」とは、師範資格を有しながら舞踊技術や指導力、ビジネスにおける知識、態度などが不十分な舞踊家を指す。これは個人の問題にとどまらず、資格を与える流儀の評価基準の曖昧さや教育機会の不足も原因である。日本舞踊はすでに社会的に価値がある公共財としての性格を持ち、その担い手である師範の質が日本舞踊の全体の信頼に直結する。解決には、批評文化の活性化、指導力・ビジネス知識を含めた教育環境の整備、そして師範制度における評価基準の明確化と再評価の仕組みづくりが求められているのではないだろうか。