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日本舞踊はなぜ「古典」なのか?そのきっかけは日清戦争にあった

日本舞踊はなぜ「古典」なのか?そのきっかけは日清戦争にあった

  • 日本舞踊は「伝統芸能」。
  • 日本舞踊は「古典」。
  • 着物を着て踊る、古いもの。

たぶん、多くの人がこう思っていると思います。

江戸時代の日本舞踊(当時は『日本舞踊』という名称はありませんでしたが)は、当時の人たちにとっては間違いなく「現代」のものでした。私たちがスポーツジムや、子供の塾やプログラミング教室を探すのと同じ「いま」のものでした。

それがどこから「古典」「古いもの」に変わったのか。

実は、「日清戦争」がそのきっかけなのです。この記事ではなぜ日本舞踊、はじめ歌舞伎なども含めて「古典」となっていったのかをご紹介します。

日清戦争とは

日清戦争(にっしんせんそう)とは、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた、朝鮮半島の権益をめぐって起こった戦争です。

結果は日本が勝利し、日本がアジアの近代国家として認められ、下関条約により得た多額の賠償金を活用して、本格的な工業化に乗り出すきっかけとなりました。

日清戦争の勝利にわく日本

歌舞伎やそこから生まれた日本舞踊、文楽などが「古典」と定義されるようになったのは日清戦争がひとつの境となっています。

日清戦争が始まり、中国での戦勝報告に沸き立つ日本では、連日、戦場の兵士を鼓舞し、国威を高揚するようなメディア報道、歌曲、錦絵などが発表され大人気を博しました。

日清戦争下で演劇が果たした役割

演劇も例外に漏れず、日清戦争をテーマとした多くの作品が作られます。

特に、川上音二郎率いる「新派」と呼ばれる集団は開戦からわずか2週間後「壮絶快絶日清戦争」を上演。川上自ら戦地に取材した「川上音二郎戦地見聞日記」は皇太子(のちの大正天皇)の天覧舞台も務めました。演出にも力を入れ、三味線音楽を廃し、突撃ラッパを使う、舞台上で花火を使い臨場感を盛り上げるなどさまざまな工夫を凝らしていたようです。

歌舞伎も負けじと新派の挑戦に答え、「壮絶快絶日清戦争」から約1ヶ月後には東京で「日本大勝利」さらに1か月後には大阪でも「我が帝国万々歳 勝歌大和魂」を上演。しかし結果は残念なものだったそうです。当時の批評では「舞台で火薬を爆発させるなど新派のやり方を真似ても、稚拙な筋書きと演出を補うには足りない」など辛辣なものが残っています。

この時から、歌舞伎や文楽は時代を反映する現代性を失っていき、古典色を深めていくことになっていきました。

時代を超えて愛されるもの

現代の出来事を写実的に生き生きと描き出せる近代演劇が国民の熱狂をさらい、歌舞伎や日本舞踊は「古典」の世界へと位置付けを変えました。

江戸時代は歌舞伎も文楽も、ゴシップ的なものを取り上げて発展してきた歴史があります(心中や仇討ちなど)。伝統芸能という様式の中では、現代の出来事はリアルに表現はできないですが、古典の様式だからこそ、そのエッセンス、つまり時代が変わっても変化しない人の心とか感情が心を打つこともあり、それが伝統芸能の魅力でもあります。より普遍的な価値に目を向けていきたいですね。

参考文献

ドナルドキーン「日本人の美意識」