ブランクがあっても・・・行動力で花開く!~坂東映司(てるし)東京都杉並区荻窪~
東京都杉並区荻窪で教室を開いている、坂東映司(てるし)さんにお話を伺いました。
創作舞踊公演への参加、海外公演、アートプロジェクトの企画など、持ち前の行動力を活かして活躍されている映司さん。しかし、過去には子育てによる日本舞踊家としてのキャリアの中断を経験。一度は日本舞踊を諦め、心が離れてしまったこともあったそうです。そこから活動を再開したきっかけ、過去の失敗談、これから実現したいことまで、詳しくお伺いしました。
坂東映司(てるし) プロフィール
坂東流日本舞踊師範
私立女子中学高等学校講師
日本舞踊協会公演などに出演
アートデリバリーと題し、小・中学校にて日本舞踊体験教室を開講
海外公演(中国・インドネシア)
新春舞踊大会にて奨励賞受賞
和装コンサルタント「映 あいこ(えい あいこ)」としても活動
姉に憧れ、舞踊家の母のもと日本舞踊を始める
幼少期

うめざわ
映司さんが日本舞踊を始めたきっかけなんですか?

坂東 映司(てるし)さん
母が坂東流の師範をしておりまして、姉2人が習っている様子に憧れて日本舞踊を始めました。

うめざわ
小さい頃の印象に残っている思い出はなんですか?

坂東 映司(てるし)さん
そうですね、これは親が教えている人にはありがちなんですけど、かわいい役ができないんですよ。
他のお弟子さんから役を選んでいくので、師匠の娘である私は男役しか回ってこなかったり「かわいい着物が着たいなあ!」と思っても、そういう役は残ってないんです。
でも、結果、それがいいお稽古になったんですけどね。

うめざわ
映司さんご自身は、どういう演目がお好きなんですか?

坂東 映司(てるし)さん
逆に、あまりこだわりはありませんね。日本舞踊があまりにも当たり前にあったので。踊ってみたら、みんなよかったなと思えます。実は、自分のことが見えていないのかも(笑)
心に残る舞台:長唄「楠公(なんこう)」

うめざわ
映司さんの、最も心に残っている舞台はなんですか?

坂東 映司(てるし)さん
「楠公」ですね。十代目の家元(坂東三津五郎氏)にお稽古をつけてもらった最後の演目です。十代目のお稽古は厳しいんですが、どうしてでしょう?いつも楽しいんです。
そんな「楠公」なんですが、本番で大失敗しちゃったんですよ。
楠公(なんこう)とは・・・鎌倉時代~南北朝時代に活躍した武士、楠木正成(くすのきまさしげ)のことを「楠公」という。長唄「楠公」は、楠木正成が足利尊氏(あしかがたかうじ)と争い、破れて自刃した戦いを題材とした作品。

坂東 映司(てるし)さん
下手板付きの幕開きで、真ん中へ出て踊らないといけないのに、中央までたどり着かずに、下手寄りの舞台の端っこでずっと踊ってしまったんです。たぶん目印にしていたライトの数を間違えてしまったんでしょうね。
十代目にそれを報告すると「ぼくも、それやったことあるよ、大丈夫大丈夫!」って笑って励ましてくださいました。
長唄「楠公」
小さいころから、日本舞踊をずっと続けていた映司さんですが、日本舞踊を仕事にするという気持ちもなく、お母さまからそれを勧められることもなかったそう。大学を卒業して会社員になった映司さんが、日本舞踊を仕事にしようと思ったきっかけがありました。
本気で学ぶきっかけは、同世代の舞踊家さんたち

うめざわ
日本舞踊をお仕事にしようかなと思ったきっかけはなんですか?

坂東 映司(てるし)さん
他流のお師匠さんから誘って頂いた舞踊公演で、日本舞踊を仕事としている若手の舞踊家さん達に出会ったことです。
それまではあまり、若い人の仕事と思っていないかったので、そこから改めて日本舞踊界に目を向け、若手の多い創作舞踊などに参加させて頂く中で、日本舞踊を仕事にする意義を高めました。

坂東 映司(てるし)さん
創作舞踊でも特に印象に残っているのは「未来座」の前衛である、当時の「創作舞踊劇場」が開催した「火の鳥」という公演に出たことですね。
未来座とは・・・日本舞踊協会が組織する、創作日本舞踊公演を開催する団体。「火の鳥」は漫画家の手塚治虫の同タイトルの作品をモチーフに、2004年に作られた舞踊作品。

坂東 映司(てるし)さん
同世代の他流の舞踊家さんともたくさん交わることができましたし、古典をやる人がこういう風に踊るんだ!など、刺激を受けながらみんなで作り上げていくのが楽しかったですね。
子育てに専念、一時は日本舞踊から心離れた
中国公演。このほかにもインドネシアツアー参加など、海外での活動にも関心が高い

うめざわ
逆に、これまでに辛かった時期などはありますか?

坂東 映司(てるし)さん
30代で結婚をし、子育てで約10年、日本舞踊を休みました。そのころは「火の鳥」を経験して日本舞踊が本格的に面白くなってきたときでした。
いまそんなことはありませんが、そのころの日本舞踊の世界は、今より家庭との両立がメジャーではなく、結婚すると一線を退く時代。子供が3歳になるまでは、私が家にいて子供に専念しよう、と家族で決めていたこともありました。そうして一度、日本舞踊を諦めたのが辛かったですね。

坂東 映司(てるし)さん
そういう生活の中で、私自身もだんだん日本舞踊から心が離れていきました。
はじめは舞踊会を見に行っても、自分が踊れないもどかしさを感じていた私ですが、しだいに舞台を見ていても「いま家に帰ったら、家のあれとこれの用事ができるな」と考えるようになったり・・・。
「日本舞踊の世界に戻らなくてもいいかも」とさえ考えていました。

うめざわ
それがどういうきっかけで、また始められることになったのでしょうか?

坂東 映司(てるし)さん
背中を押したのは夫でした。もともとは3歳になるまで家庭に専念してほしい、そのあとは好きなことをやってほしい、と言われていました。
先ほどお話したように、日本舞踊から少し距離が出来ていた私ですが、主人が「3歳になったよ、踊りをやりなよ」と言ってくれ、それなら、と日本舞踊を再開しました。
「その人が求めていることに応えること」を一番に

うめざわ
映司さんの、教える上でのこだわりは何ですか?

坂東 映司(てるし)さん
一番は「その人が求めていることに応えること」です。
演劇関係の人だったら「舞台に立ったときにどう見えるか」をしっかり教えたり。
また身体のことを気にしている方、例えば、生活習慣の中で鞄を提げるの方の肩が少し上がってしまったり、逆に肩を痛めて上げにくいという場合がありますよね。そういう方には、とことん筋肉の使い方を教えたりします。
その方が「何を目的として来ているのか」に合わせて、ニーズに応えるのが重要だと思いますね。
コロナでもお弟子さんが増えた。今は交流がしたい!

うめざわ
コロナの影響はどうですか?

坂東 映司(てるし)さん
私立学校の課外授業で日本舞踊を教えているのですが、学校はこの1年間行けていないですね。
自分のお弟子さんも多くなかったので、これを機にHPのセミナーに行って勉強をし、見直しをしたらその甲斐あってか、逆にお弟子さんが増えました!
お弟子さんはいま12名くらいになりましたが、集まって交流ができないのが残念ですね。まだマスクをとったお顔を拝見できていないお弟子さんもいます(笑)
行動力で「未来座」に再挑戦!

うめざわ
ご自身でもアートイベントをされたり、自主的にHPの勉強をしたり、映司さんって、かなり行動力ありますよね。
小・中学校にて日本舞踊体験教室を開講する「アートデリバリー」も開催している

坂東 映司(てるし)さん
そうですね、昔「ASAYAN」の海外へ行きたい若者募集のコーナーに勝手に応募して、一次審査に通ってテレビで発表されてしまい、周囲からびっくりされたこともありました・・・(笑)

坂東 映司(てるし)さん
それは別にしても・・・、行動してよかったなと思ったのは、復帰後の2018年、未来座が「カルメン」をやったときに、初めて出演者の公募があったときですね。
私はそのとき、もう年齢的にも若くなかったんですけど、過去の悔しい思いがあるから「挑戦しちゃいけない、駄目とは言われてない!」って思って、勇気を出して応募して出演することができたんです。
しかも、それがきっかけで日本舞踊協会の別のお仕事に声をかけていただいたり、勇気を出して挑戦してよかったです。
小さくても自分たちの会を
こども発表会

うめざわ
これからやりたいことを教えてください。

坂東 映司(てるし)さん
小さくてもいいので、このお稽古場だけで発表会をやりたいですね。
実は、まだこのお稽古場主催での発表会というのをやっていないんですよ。

うめざわ
そうなんですか!今まではどうされていたんですか?

坂東 映司(てるし)さん
私の教室は、発表の機会には恵まれているんです。
コロナの前までは、仕事場のホールが無料で使えて、踊りたい人は無料で出られます。
地域の舞踊連盟の会には、少額の費用でホール公演に出演できます。
また、親師匠のところでしっかりとした古典の会をやっているので、出演を希望することもできるんです。

坂東 映司(てるし)さん
でも、私が主催した会っていうのはまだなんですね。
みなさんがやりたい!って思える会をすること、そして、交流もしてほしいですよね。集いたい!

うめざわ
今の時期、本当にそう思いますよね。でも映司さんの行動力とお人柄でお弟子さんも増えて、大きく花開く準備はできていると思います!その時が楽しみですね。
本日はありがとうございました!
お稽古場の庭にて
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