長唄「越後獅子」の歌詞と解説
長唄「越後獅子」の歌詞と解説です。
江戸で人気のあった大道芸「越後獅子」を大衆の前で披露する青年が主人公です。
「越後獅子」の芸そのものだけではなく、故郷の越後に残してきた妻、お国名物を歌い上げ、最後は山のような人だかりの喝采の中で幕となります。
長唄「越後獅子」の解説
「越後獅子」は「門付け(かどづけ)」と呼ばれる、家の前で芸を披露し金銭をもらう大道芸です。
本来は、親方が笛などを演奏し子供が獅子を舞う芸能集団なのですが、ここでは芸をしながら一人旅をする風流な青年(風雅物)として描かれています。
「越後獅子」は新潟県新潟市、旧月潟村の発祥。洪水に悩まされていた月潟村の人々が、子供に獅子舞を舞わせて各地を回り旅稼ぎをしたのが始まりと言われています。彼らは江戸にも出稼ぎに訪れ、初めて江戸入りしたのは宝暦5年(1755年)のこと。特に正月の風物詩として人気を博し、角兵衛獅子(角兵衛によって創始されたという説から)や蒲原獅子(かんばらじし)とも呼ばれました。
曲の成り立ち
上方でも流行り、大坂で地歌曲「越後獅子」が作曲されると、文化8年(1811年)、九代目杵屋六左衛門が七変化舞踊「遅櫻手爾葉七文字(おそざくらてにはのななもじ)」の伴奏曲の一つとして長唄に作曲し、中村座で初演されました。
1910年ロンドンで開かれた日英博覧会では、日本を代表する大道芸の一つとして越後獅子が参加しています。演じる子供に対する時代にそぐわない厳しい訓練が仇となり、明治以降、大道芸としては消滅しますが、お座敷芸や郷土芸能として残り、日本舞踊の演目としても今でも人気を保っています。
その旋律がプッチーニのオペラ「蝶々夫人」にも引用されていることでも知られています。
作品情報
写真提供:千翠珠煌さん
作曲者 | 九世杵屋六右衛門 |
作詞者 | 松井幸三 |
初演情報 | 初演年月 1811年(文化八年)3月 役者 三世中村歌右衛門 振付 市川七十郎 劇場 江戸中村座 |
本名題 | 遅桜手爾葉七字(おそざくらてにはのななもじ) |
大道具 | 江戸の街屋、または越後屋前の町並、又は日本橋の前、など種々ある |
小道具 | 獅子頭、太鼓(バチ)、あや竹(藤間流)、さらし、草履(麻裏)、一本歯下駄(坂東、西川、西崎流など) |
衣装 | 着付 浅葱色の石持 帯 納戸色 男結び 襦袢 赤地にうず巻模様、黒襟 小裂 茶色地に黄八柄のたつ付、足袋(黒)、赤のあぶらやえ、手甲(赤)、小紋の上締、たすき かつら すっぽり袋付まげ |
長唄「越後獅子」の歌詞
打つや太鼓の音もすみわたり 角兵衛 角兵衛と招かれて
居ながら見する石橋の 浮世を渡る風雅もの
歌ふも舞ふもはやすのも 一人旅寝の草枕
おらが女房をほめるぢゃないが 飯も炊いたり水仕事
あさよるたびに楽しみを ひとり笑みして来りける
越路がた お國名物は様々あれど 田舎なまりに片言まじり
獅子唄になる言の葉を 雁の便りに 届けてほしや
小千谷縮の何処やらが 見え透く国の習ひにや 縁を結べば
兄やさん 兄ぢゃないもの 夫ぢゃもの
来るか来るかと濱へ出て 見ればの ほいの 濱の松風音や
まさるさ やっとかけの ほいまつかとな
好いた水仙 好かれた柳の ほいの 心石竹 気はや紅葉さ
やっとかけの ほいまつかとな
辛苦甚句もおけさ節
何たら愚痴だえ 牡丹は持たねど 越後の獅子は
己が姿を花と見て 庭に咲いたり咲かせたり
そこのおけさに異なこと言はれ ねまりねまらず待ち明かす
御座れ話しませうぞこん小松の蔭で 松の葉の様にこん細やかに
弾いて唄ふや 獅子の曲
向ひ小山のしちく竹 いたふし揃へてきりを細かに十七が
室の小口に昼寝して 花の盛りを 夢に見て候
見渡せば 見渡せば 西も東も花の顔 何れ賑ふ人の山 人の山
打ち寄する 打ち寄する 女波男波の絶え間なく
逆巻く水の面白や 面白や
晒す細布手にくるくると さらす細布手にくるくると
いざや帰らん 己が住家へ

