日本文化の根底にある美しさを日本舞踊で体感してほしい!|五條詠佳(えいか)千葉県市川市・いすみ市
千葉県市川市と、いすみ市で日本舞踊を教える、五條詠佳(えいか)さんに取材しました。
詠佳さんは芸達者なお母様の元、3歳から日本舞踊、民族舞踊の厳しい研鑽を積まれました。ご自身が多数の受賞歴を持つだけでなく、お弟子さんからもコンクール入賞者を輩出しており、舞踊家としても指導者としてもベテランです。しかし、教室には専門家を目指す人だけではなく、趣味で習われる一般の方も通われています。
「舞台に立つことだけではなく、日々のお稽古を通じて、日本文化の根底にある美しさを体感してほしい」と語る詠佳さんには、気さくにお弟子さんの相談に乗る、家庭的なお師匠さんの顔もありました。
詠佳さんのこれまでの歩み、先生として大切にされていること、これからの展望までを取材しました。
五條詠佳(ごじょうえいか)プロフィール
千葉県いすみ市生まれ。
日本舞踊を3歳より花柳流で手ほどきを受ける。
12歳から15歳まで 民族芸能文化連盟 舞踊団研修生として 民俗芸能を習得。
後に五條流先代家元 故・五條詠昇氏に師事。
3年間の内弟子を経て、1995年より 故・西川喜久輔氏に師事。
日本大学 芸術学部 演劇学科 日本舞踊コース卒業。
公益社団法人 日本舞踊協会 正会員。同協会千葉県支部役員。
古典だけでなく創作舞踊活動にも積極的に取り組み、全国舞踊コンクールでは1位を3名、入賞者を輩出し、弟子の育成にも力を入れている。2019年に着物マイスターを取得。
信条:冬は必ず春となる
踊りがとにかく大好き!外房大原から新宿区大久保まで稽古に通った少女時代
▲これまで古典から創作まで、国内外で出演・手掛けた舞台は数知れず
詠佳さんは千葉県のいすみ市に生まれました。芸事が好きなお母様に手を引かれ、日本舞踊のお稽古に通い始めたのは3歳のころ。当時まだ花街が残っていた御宿(おんじゅく。いすみ市に隣接)で芸者さんの指導にあたっていた花柳流のお師匠さんに手ほどきを受けます。

詠佳さん
お母様が民謡を始められたのをきっかけに、詠佳さんも小学校1年生で民舞のお稽古を始めます。熱心な姿勢が認められ特訓生になった詠佳さんは、週末は朝6時に起き片道3時間かけ、外房から新宿区の大久保まで稽古に通う日々。このころから将来の夢は「踊りの先生」でした。
しかし、中学1年生の時に「遊びたい」という理由で踊りはすっぱりとやめてしまいます。
五條流との出会いと壮絶な日芸受験記
▲故・五條詠昇師と。高校生時代の師との出会いが、詠佳さんが日本舞踊の道へ進む大きなきっかけとなった
「将来の夢」に書くほど好きだった踊りを、中学の途中でやめてしまった詠佳さんは、しばらくは「普通の学生」として学校生活を満喫していました。転機が訪れるのは、踊りをやめてから6年が経った高校3年生の時でした。
鮮魚売り場から流れる三味線音楽を聞いて涙が

詠佳さん
なぜそういう気持ちになったか、理由は今でもわかりません。
不思議な体験を経て、再び踊りの道へと戻ってきた詠佳さん。高校卒業後の進路を、日本舞踊を学べる大学、「日本大学芸術学部演劇学科日舞専攻(通称、日芸日舞専攻)」へ定めます。
あえて孤独を選び受験に没頭
しかし進路を決めた詠佳さんへの周囲の反応は冷たいものでした。進路指導の先生には、「今の成績では行けるわけがない」と笑われましたが、逆に詠佳さんには火が付きます。頭に「己勝(己に勝つ)」と書いたハチマキを締め、部屋には水の入ったバケツ。眠くなったらすぐ顔を洗って勉強を継続。遊び友達とも徐々に疎遠になりましたが、受験のため、孤独に勉強しました。
五條流との出会い
受験に向けて日本舞踊の稽古も再開。そのときお母様が所属していた団体に、後の五條流の家元(故・五條詠昇氏)が指導に来られていたことで、日本舞踊の指導を依頼したのが、五條流で本格的に日本舞踊を修業するきっかけでした。

詠佳さん
その一言で五條流との縁が始まり、いすみ市から市川の五條流家元のお稽古場へ通う日々が始まります。
没頭しすぎて入院。病室で稽古
「無理だ」と笑われた受験のため、勉強に、稽古に没頭した詠佳さんは、大学の一次筆記試験後に過労で倒れ入院してしまいます。

詠佳さん
苦労のかいあって、無事に大学に合格、そして千葉から東京に上京し、学生として日本舞踊を学ぶ毎日へ。
内弟子修業と同時に「日本舞踊の先生」としても活動をスタート
▲NHK Eテレにっぽんの芸能 出演時「六玉川」(2015年)
日芸日舞専攻を卒業した詠佳さんは、いよいよ日本舞踊のプロとなるべく、五條流家元の稽古場で内弟子生活を開始します。
過酷だった内弟子生活。1年で飛び出すも再び修業に戻る
▲創作に定評がある五條流。詠佳さんも多くの作品創作、演出、衣裳制作まで手掛ける
家元の自宅近くのアパートに住み、通いの内弟子として、家事一切を行いながら、日本舞踊はもちろん、長唄や三味線の稽古に明け暮れました。

詠佳さん
内弟子生活一年目に現実と理想のギャップに耐えきれず実家に帰ってしまったことがあるのです。実家につくなり、お家元から「すぐに戻ってらっしゃい」とお電話が入りとんぼ帰りで戻りました。いやで仕方なかったのに考えることなくやりきれない自分に泣きながら電車ですぐに戻ったんですよね。
実は日芸合格直後に、父を直腸がんでなくしているんです。父の訃報を電話で聞いた瞬間、気が付いたら家元と奥様に会いに稽古場に足が向かっていた、ということがありました。着物のたたみ方から日常の振る舞いまで、非常に厳しい師匠でしたが、そこに、なにか温かいものも感じていたから、厳しい修業でも耐えられたんだと思います。
古典を西川喜久輔先生に師事
五條流は「創作」を得意とする流派です。流派創立者である初代五條珠實は、洋舞やバレエの要素を巧みに取り入れ、「新舞踊運動」の先駆者となりました。3年間の内弟子生活を終えた詠佳さんは、さらに古典を本格的に学びたいと、師匠に相談し、西川喜久輔氏の稽古場にあがらせていただくことになります。五條流で培った土台に、本格的な古典の修業を積み重ね、コンクールでもたびたび受賞するようになり、舞踊家として歩み始めた実感を得始めたのがこの時期でした。
辛い時期を乗り越えられた「冬は必ず春となる」は座右の銘
本格的に舞踊家として歩み始めた詠佳さんですが、その歩みは順調だったわけではありませんでした。苦しいときに支えられたのは座右の銘「冬は必ず春となる」です。その理由は。

詠佳さん
修業時代の生活を支えたのは日本舞踊教室
▲地元・大原にはいまでも稽古場を構える(写真は2001年大原稽古場開設10周年のとき)
詠佳さんは大学卒業とともに指導者としてのキャリアもスタートさせています。内弟子時代から地元・いすみでお弟子さんを取り、市川の家元の稽古場といすみ市を往復する生活でした。
修業をしながら舞台にも出演し、教室のお弟子さんへの指導も行うのは並大抵の忙しさではなかったそうですが、それを支えたのは舞台への情熱です。

詠佳さん
目指す稽古場は「日本文化の根底に触れられる場所」
現在、詠佳さんは舞台出演も続けながら、市川市といすみ市で日本舞踊を教えています。教室の先生として心掛けていることや伝えたいことなどを伺いました。
「その人の良さが活かせる」指導を

詠佳さん
指導させていただく時は、身体の使い方や呼吸を軸に演目の性根を表現できるようにしています。例えば背中の柔軟性や呼吸などに注目します。
お弟子さんは多様で、子どもからシニア層まで、詠佳さんのように専門家を目指す人もいれば、趣味で習っている人もいいます。
お弟子さんから見た詠佳さんは・・・
お弟子さんからお話を伺うことができましたので、ご紹介します。
母親業をしながら、踊りを教えられ、舞台にも立たれているところにすごく憧れています。踊りはもちろん、時には私生活のことにも相談に乗ってくださるすばらしい先生です(親子で通われている女性)
小さいころから日本舞踊を習っていますが、学業との両立や就職活動との両立などで悩むことがたびたびありました。そんなときでも密に相談に乗ってくださり、続けてこられたのは詠佳先生のおかげだと思っています。またコンクールだけでなく普段の稽古でもとても丁寧に教えてくださいますし、お稽古場に集まる方たちもいい方ばかりです(大学生)
創作活動とともに、日本舞踊を通じて日本文化の良さを体感する場作りを
最後に、今後の展望についてお伺いしました。

詠佳さん
舞踊家としては、後世にも再演していただけるような作品を残していきたいです。これからもっともっと意欲的に様々なことに挑戦していきます。
先生としては、お稽古を通じて日本文化の根底にある美しさを体感していただける場を作っていきたいですね。
専門家を目指すことや、舞台に立つことだけが日本舞踊を習う意味ではないと思っています。お稽古に来る30分、1時間だけでも、畳のある生活、行儀作法といった良いものに触れることで、日常で疲れた気持ちを落ち着けて、日本文化に浸れる時間を作っていきたいと思います。
まとめ
千葉県市川市といすみ市で日本舞踊を教える、五條詠佳さんにお話を伺いました。一度は踊りから離れるも、再び日本舞踊の専門家の道へ。五條流家元・五條詠昇氏、西川喜久輔氏の元での厳しい修業時代を経て、現在に至るまでご活躍されています。
先生としては、踊りだけではなくざっくばらんにお話しできる気さくな一面も。五條詠佳さんの、先生として、舞踊家としての益々の活躍に期待です。
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