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舞踊家・振付師 谷口裕和の魅力

舞踊家・振付師 谷口裕和の魅力

「安易に新しいものを取り入れるのではなく、古典を深めるという方向性で、新しいものがまだまだ生み出せる。それが今日、はっきりと実感できました」

とある公演の懇親会で、私は興奮気味に話していた。

2021年春、私は、蔵前の神谷舞台で、ある日本舞踊公演に解説者として参加していた。解説パートが終わり、いつものように舞台後方で演目を鑑賞する。次は義太夫「海女」だ。一人の海女が海岸に現れ、男のつれない態度を恨み、恋の憂さを踊る。踊りが始まると、不思議な感覚にとらわれた。豊かな海の情景や、揺れ動く海女の感情が、実に瑞々しく、生き生きと伝わってくる。

「これは、振付が普通ではない」と気づいた。しかし、なにか奇をてらっている、というわけではない。古典らしい振付だった。

「古典なのに、古典じゃない」

そうとしか言いようがなかった。

「古典芸能である日本舞踊が大好きだが、その見通しは明るくない。とはいえ、流行りものと安易にコラボレーションしたり、というのも違う気がする。でも…このままで本当にいいのだろうか?」と忸怩たる思いを持っている人は多いと思う。私も日本舞踊の未来を想像する中で、常にこの葛藤を感じてきたが、この日の「海女」を見たとき、この葛藤の解決に、光が差した気がしたのだった。

この「海女」に振りを付けられたのが、舞踊家・振付師の谷口裕和氏だった。

ENISHI 2023 第三回 別会 谷口裕和の会

日時 2023年12月4日(月)
場所 三越劇場(日本橋三越本店 本館6階)
開演時間 18:30(開場18:00)
御観劇料 10,000円(全席指定席)
Webチケット予約 【e+(イープラス)】https://eplus.jp/fumibishi/

舞踊家・振付師 谷口裕和の魅力

清元「種蒔三番叟」谷口裕和 第五回谷口裕和の會 国立大劇場

谷口裕和という舞踊家・振付師がいる。どの流派にも属さず、個人で活動しているが、チケット代が1万円を超えることもあるリサイタル「谷口裕和の會」はいつも満席だ。

谷口氏は岐阜県の飛騨高山の料亭で生まれ、1歳からお座敷で舞う芸妓さんを見て育った。小学生のときから舞踊家を志し、中学卒業後、東京に出て西川流の内弟子となるが、若気の至りというか自身が思い描く舞踊の道とは異なったため、4年目に飛び出すように西川流を離れた。数か月後、運命に導かれるように梅津貴昶師に入門すると生活が一変。大物歌舞伎役者に振付を教える多忙な毎日に。修行を積み26歳で独立してからは流派に属さず、本名「谷口裕和」の名前で活動。現在は東京、飛騨高山、京都に稽古場を持ち、60名以上の弟子や俳優、女優、歌舞伎役者の指導・振付を行っている。

この記事では、本人への取材を元に、谷口裕和氏の魅力に迫る。

古典は生きている。そこに新しい解釈を見出す

長唄「賤機帯」第四回谷口裕和の會 狂女谷口裕和 舟人片岡千之助 セルリアンタワー能楽堂

谷口氏へ、私が「海女」を見て感じた印象を伝えると、こう答えてくれた。

-僕たちが本当にやらなきゃいけないことは、古典の古い曲が、新しく見えるようにすることなんです。時代に生かされ続けてきたものが古典。常に生きているんですよ。つまり、今を生きる人の解釈で、古典は絶対に新しいものになっていきます。

古典の世界が「今」だった時代と比べ、現代は生活様式も人々の価値観もまったく異なる。作品の時代考証も当然必要だが、過去を正確になぞればよいというわけではない。そもそも過去のことを完全に把握し、理解することは不可能だ。

谷口氏は、古典作品を「ずっと変わらないもの」と捉えるのではなく、常に変化し時代に生かされてきた「生き物」ととらえ、積極的に新しい可能性を見出していく。

生きざまから生まれる「個性」を引き出す

長唄「吉原雀」谷口裕和 尾上右近 第七回谷口裕和の會 名古屋能楽堂

谷口氏のまなざしは、作品から、それを演じる個人にも向けられる。

-踊りには今までの人生がすべて出ます。たとえ同じ振りでも、その人の生きざまが現れるんです。だから師匠は、その生きざまから生まれる「個性」を引き出してあげる必要があるんです。

「個」へのまなざしは、流派に属さず「個人」として活動する谷口氏のあり方にも通じている。全国に200を超えるといわれる日本舞踊の流派の多くは、歴代の家元や幹部が振り付けた振りを守っており、それが流派の独自性の一つとなっている。流派に属する一舞踊家が、古典作品にまったく新しい振りを付け演じることはまず、ない。谷口氏の振付の創造性の根拠の一つが、特定の流派に属していないことであることは明らかだろう。

しかしながら、流派に属さないことの不利益もある。例えば、流派の名前を名乗れること(なとり。名取、または名執と表記)は、多くの人にとって憧れであり、技芸の証明でもある。名の知れた流派の名取になることは社会的ステータスだ。流派の中で出世すれば、名誉や仕事もついてくる。

何にもとらわれない。自分の名前でやればいい

第六回谷口裕和の會の筋書より、尾上右近丈と関の扉の稽古風景

現に、谷口氏のように、個人名で仕事をしている舞踊家はほとんどいない。独立したときの心境を聞いた。

-怖いですし、不安でしたよ。踊りをやっています、というと必ず「何流ですか?」と聞かれます。「何流でもなくて個人です」と答えると、怪訝な顔をされる。名前を知られていないから余計に、肩書がない不安はありました。それでも、「一生踊りたい」と思ったから、肩書がなくても、何にもとらわれない自分の名前でやればいいと。自由な個人ということは、芸術にとっても大事なことだと思います。

ほとんど前例がない個人名での活動には苦労もあった。それでも「負けてたまるか」「流儀にとらわれなくても踊っていけることを示したい」という気持ちを常に持ち続けていたという。

いまや全国三か所に稽古場を持ち、60名以上の弟子を指導。その中にはプロの歌舞伎役者の名もある。普段は舞踊指導、振付師としての活動が多い谷口氏が定期的に舞台に立つリサイタル「谷口裕和の會」はいつも満席だ。谷口氏がこだわるのが「素踊り」。「谷口裕和の會」もすべて素踊りで構成されている。

素踊りの魅力

清元「保名」谷口裕和 第八回谷口裕和の會 GINZA SIX観世能楽堂

2022年にGINZA SIX 観世能楽堂(東京都中央区)にて行われた第八回「谷口裕和の會」は、私も客席で鑑賞した。市川團子氏の力強く清々しい三番叟の後が、谷口氏の「保名」だった。橋掛かりから谷口氏が現れた瞬間、会場の空気が明らかに変わったのを感じた。実を言うと、そのあとの舞踊よりも、最初の、空気が変わった瞬間の方が印象に残っているほどだ。

正方形の能舞台では、左右に加え、前後の動きも多い。客席も舞台を取り巻くように配置されている。対照的に、左右に長い歌舞伎や日本舞踊の舞台では、舞台と客席が正対していることもあり、横の動きが主で、奥行きを意識することが少ない。もし左右の動きしかないのであれば、極端な話、客席から見える舞台を映画館のスクリーンのように二次元的に捉えることもできる。理論上は、超高画質の液晶パネルがあれば、そこで生身の人間が踊っているのか、映像が映し出されているのかわからない。

しかし、会場の空気は、空間全体を満たしている。保名の冒頭で感じた空気の変化は、映像では決して再現できないものだ。

引くことで生まれる表現

素踊りは豪華な衣裳や大道具などがない分、観客は踊りそのものに集中する。当然、振付の善し悪しも大きく影響する。谷口氏が振りをつけるときに意識しているのは「引くこと」だという。

-本番を山の頂上だとすると、一生懸命踊り込んで頂上に着くのではなくて、踊り込んだところから引き算をして、力が抜けた良いところの位置が頂上になる。これがすごく大事です。お茶の道具もそうじゃないですか。今日はこの水差しを際立たせようと思ったら、ほかの道具が主張してはいけない。控えめにする。それは引き算です。踊りも同じで、たくさん並べて、そこから引いていくから空間が生まれ、空気が動く踊りになり、情景が生まれるんです。

素踊りほどお金のかかるものはない

創作「パイプオルガンの響きにのせて~森羅凱風~」サラマンカホール

空気の変化は、細やかな準備によっても演出されていた。谷口氏は、素踊りの会では衣裳や帯、扇子など小道具、大道具、また囲い(舞台の上手と下手の黒御簾(くろみす)の前に飾る絵のこと)にいたるまで、そのためにしつらえるという。

-みんな素踊りは安いとおっしゃるんですが、逆です。素踊りほどお金かかるものはないですよ。衣裳とかつらをつけて白塗りすれば、誰でもその役に見えます。でも素で自分の世界を見せるには、そこまでしないと。毎回赤字だからね。赤字にしながらでも、やっぱりその世界を新しいものに見せたい。こういう越後獅子もあるんだ、こういう黒髪もあるんだ、って。

新しい解釈と「引くこと」によって生まれる立体的な情景、作品に合わせてしつらえられる衣裳と道具。それらが谷口氏の舞台をより魅力的にしている。

しかし、最も大事なのは「鼓動」が伝わることなのだという。それに気づいたのは意外な出来事がきっかけだった。

震えと戦い、鼓動を知る

-26歳の時、はじめてリサイタルを行ったときです。客席には入りきらないくらいのお客様が来てくださいました。一曲目の常磐津「山姥」、橋掛かりから出て行ったそのとき、震えが出て止まらなくなってしまったんです。なんと、そこから5年くらいずーっと震えが止まらなかったんですよ。病院にも行きましたが治らなかった。そうしたら、ある方が「それは鼓動だ」っておっしゃったんですよ。生きているということなんだって。そこで気づかされたんです。
震えと戦いましたが、鼓動だと思った瞬間に震えなくなった。震えから学びました。自分が踊っているここは全部自分のものなんだ、自分の空気が全部を包んでいるから、鼓動が波になって空気を伝わって、だからお客様が見てくださるんだ、ということが。

谷口裕和の人間観と踊り

ニュージーランド日本大使館にて

谷口裕和氏は「素踊りの名手」と評される。
26歳で組織に所属する安心感ではなく、表現者としての自由を選んだ。
振付の独創性は、過去にとらわれない古典の解釈と、引き算の美学、そして「個」へのまなざしから生まれる。

絢爛豪華なイメージが強い日本舞踊の世界で、決して派手ではなく、もっとも難しいとされる「素踊り」にこだわり抜くのは、素踊りがその人の生きざまを映し、最も「個」を引き立たせるからであろう。谷口氏の「個」に対する信念は、独立の時、自分の踊りをやると決めた自分との約束であり、相対するすべての人に向き合い、その生き方を尊重したいという人間観の表れではないだろうか。

ENISHI 2023 第三回 別会 谷口裕和の会

日時 2023年12月4日(月)
場所 三越劇場(日本橋三越本店 本館6階)
開演時間 18:30(開場18:00)
御観劇料 10,000円(全席指定席)
Webチケット予約 【e+(イープラス)】https://eplus.jp/fumibishi/