死と芸術と日本舞踊
今日は死と芸術の関係について考えたいと思います。人によっては、少しショッキングな内容かもしれませんので、最近知り合いを亡くした方や、怖いのが苦手な方には辛い内容になるかもしれませんので、記事を閉じていただけると幸いです。
芸術の役割は「死」を癒すことにある
日本舞踊は文化であり芸術です。そもそも芸術はなぜあるのでしょうか。私はそれを、人間に「死」があるからだと考えています。「死」を癒すことが、芸術の役割だと思うのです。
「死」の強烈さ
身近な人をなくした、尊敬する人をなくした、大好きな人をなくした。生きていれば誰しもが経験することです。喪失感、悲しみ、寂しさ、辛さ、心の痛み、後悔、虚無感・・・そこにはその人だけの悲しみがあります。それは人間がどうすることもできない強烈な体験です。
現代日本の死と近代以前の死の違い
一方で個々の体験から離れて歴史的な視点で「死」を眺めてみますと、現代の死は近代以前と比べると、かなり穏やかなものとなっていると思います。多くの人は病院や施設で死を迎え、死後は法事まで冷蔵保存され、死に化粧をし、きれいな姿のまま見送られます。
生きていた人間が腐り朽ち果てていく衝撃
近代以前はどうだったでしょうか。遺体の保存技術もなく、埋葬までは死臭を防ぐために線香をもうもうと焚きました。行き倒れなどで誰にも顧みられず朽ちていく遺体もたくさんあったことでしょう。
ついこの間まで生きていた人間、自分と話していた人間が亡くなり、亡骸からは死臭が漂いはじめ、肌は黒く、赤く死斑が出始める。見るもおぞましく、その人が、もうこの世のものではなくなった事実を情け容赦なく突きつけます。
作品名は忘れましたが、古い物語に、美しい恋人と死別した男が、その死を受け入れることができず、恋人と離れたくないと埋葬を拒み、彼女の亡骸とともに生活しはじめます。しかし亡骸はやがて腐敗しはじめ、変わり果てていき、耐えられなくなった恋人はようやく彼女の死を受け入れ埋葬を決意する、というストーリーでした。心はどれだけその人を求めていようと、遺体の腐敗という自然の摂理はどうしようもなく冷徹に、死の事実を男に受け入れさせたのです。
近代以前の死を想像してみる
縄文時代。狩猟や採集が生活手段の時代です。ともに危険が伴います。狩りでは獲物に反撃され傷を負うこともあるでしょう。山々を駆け回って、ケガは絶えません。傷口から雑菌が入り化膿して毒が全身に回り死に至ることもあったはずです。傷口から体が腐っていき、苦しみながら死んでいく仲間をどんな気持ちで見守ったでしょうか。あるいはオオカミに襲われたり、マンモスに突き殺されたりといったこともあったでしょう。悲惨です。
採集とて安全ではありません。毒草や毒キノコによる中毒死、滑落などによる事故死。肉食動物に襲われるなど、死の危険は常に存在します。
時代が下っても病気や事故、人々との争いによる死傷は今の時代より明らかに多かったはずです。理不尽な死、そして目の前で容赦なく腐敗していく遺体。一体、どれほどの辛さでしょうか。
死を癒やすものが「芸術」
現代でさえ当然辛い「死」。近代以前は栄養状態、公衆衛生、医療技術、どれをとっても低い水準で、今以上に死亡率、特に子供の死亡率が高く、死の悲しみや苦しみは現代以上に日常に存在し、「死」の苦しみを比較するのは憚られますが、あえて考えるとすると、近代以前の、死によって受けるストレスはひょっとすると現代のそれよりも大きく感じられるときのあったのではないかとさえ思うのです。そんな人々が求めたのが芸術だったのではないか。理屈では克服できない死の悲しみを癒すものとして、芸術が生まれ育ったのではないかか、と私は考えます。
近親者の死とそれに対峙したときの私の心境
「死」が辛いものだから芸術に救いを求める。いささか論理に飛躍があることは認めます。こう考えるようになったのには私のひとつの体験があります。先日、私の良く知った近親者が亡くなりました。一人暮らしであまり連絡を取らない人だったこともあり、発見が遅れて遺体の損傷が進んでいました。家の片づけをするために自宅に入り、亡くなった部屋も片付けました。亡くなった部屋に残った故人の痕跡を目の当たりにし、きれいごとではない「死」を目の前にして、今まで感じたことのない感情が私に起こりました。
しかし目の前のことをやらなければならない、湧き出る感情を一時停止して、冷静に片づけを終わらせました。部屋を片付け終わった後、我にかえった私は、なぜか無性に音楽が聴きたくなっていました。それは今までの「音楽が聴きたい」、という気持ちとは明らかに違う欲求でした。私にはそれが、受け止めきれない感情を癒すもの、処理しきれないストレスを別のものに昇華するための欲求のように感じられました。「そうか、きっと、この死に対する感情を癒すために芸術はあるんだ」とその時思ったのです。
芸術は「嗜好品」ではなく「必需品」
芸術の役割は「死」を癒すことにある、という私の考えはこの体験に基づいています。
この経験をする前まで、私は芸術やエンターテイメントは、「嗜好品」だと考えていました。生活が満ち足りた後に消費されるもの、ぜいたく品、趣味、娯楽ですね。しかしそれでは、大昔から音楽があり、踊りがあり、絵画があり、芸術が生まれ続けていたことの説明がつきません。縄文時代から芸術はあります。火焔式土器が有名ですね。明らかに実用とは違う意図で土器が形作られている。近代以前の時代もそうです。音楽、絵画、舞踊、彫刻、美しい芸術があります。貧しい庶民でも収穫を祝い、祖先を迎えるために歌を歌い踊りを踊りました。芸術は「嗜好品」ではなくいつでも「必需品」でした。
死を扱う日本舞踊の作品
死者が登場する作品には能から移された作品が多く見られます。例えば、「汐汲」「隅田川」「黒塚」などですね。世の中の不条理、悲劇、舞台でそれを見ることで、悲しい気持ちになるとともに、どこか心が癒される気がするのはなぜでしょうか。役に自分を重ね、ともに悲劇を経験することで心が安らぐのでしょうか。演劇として、ストーリーを外から眺めることで、自分ごととしては受け入れがたい不条理を、客観的に捉えられるからでしょうか。辛い気持ちは自分だけのものではない。先人も、これからの人も、誰しもが経験し乗り越えていくものなのだ、と他者との共通性を感じることで安心できるからでしょうか。
「癒し」と「日本舞踊」に役割はあるか
日本舞踊は音楽と詩(物語)、身体表現を融合させた舞踊芸術です。そこには大きな「癒し」の力のポテンシャルが秘められていると思います。それは、日本舞踊が日本人の心に寄り添って作られた、日本人のための芸術だからです。新鮮なこと、派手なこと、脳にガツンと刺激を与えるようなエンターテイメントはほかにも代わりがあります。私の中でまだこれというアイデアがあるわけではないのですが、日本舞踊には日本舞踊にしかできない「癒し」の力があるように思いますし、それを引き出す見せ方や、演出方法、作品作りなどに、いつか挑戦してみたいと思っています。
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