戦中戦後の日本舞踊と、人々の奮闘【戦争と日本舞踊】
戦争?正直言って、すごく昔のことで、あんまりイメージわかないよね。
戦争体験者が少なくなり、戦争の記憶が薄れています。一方で、世界の一部では緊張感が高まり、戦争の脅威は地球上から決して消え去っていないということを感じる毎日です。
終戦記念日の今日、あらためて戦争について考えるきっかけになればと思い、この記事を書きました。

この記事で伝えたいこと

✓ 戦争下の日本舞踊家たちの暮らし
✓ 戦争が日本舞踊界に与えた影響
✓ 終戦直後の日本舞踊家たちの活動

日本が世界と戦争していたのを知っていますか。

75年前、第二次世界大戦という世界を巻き込んだ大きな戦争があり、日本もその渦中にありました。

これを読んでいるみなさんの、祖父母、あるいは曽祖父母の世代くらいの方が戦争を経験されています。

戦争は、日本中を巻き込んだものでしたから、日本舞踊の世界にも大きな影響がありました。疎開、慰問、活動の制限、空襲や戦闘による被害など・・・悲惨な結果をもたらした戦争ですが、終戦後は舞踊家たちが踊りによって人々を勇気づける、という活動も。

この記事は戦争前後の、日本舞踊界の様子を紹介することで、みなさんが戦争について考えるきっかけになってほしいと思って書きました。

・私たちがその時代に生きていたら、どう考え、行動しただろうか?
・自分だったらどうするか?
・このような戦争を二度と起こさないために、どうしたらいいだろうか?

いろんなことを考えるきっかけになってくれれば幸いです。

日本が経験した戦争について

第二次世界大戦は、1939年から1945年までの6年余りにわたって、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、オランダ、フランス、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた戦争です。

特に日米間の戦争を取り上げて「太平洋戦争」と呼びます。日本はあのアメリカと戦争していたんですね。太平洋戦争では、沖縄が地上戦の舞台となり、各地が空襲の被害に遭い、さらに1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、多くの犠牲者が出ました。被爆者の方は原爆の放射能の後遺症に苦しみ、戦争の爪痕はいまも残っています。

日本は多くの被害を受けた一方で、中国や東南アジアへ勢力拡大を図った日本軍は、各地で多くの加害行為を行っていることも忘れてはなりません。

当時、各国には様々な事情がありました。戦争が起きたのはどこの誰のせい、と単純に決められるものではないのです。

まずは少しずつ、知るところから始めましょう。

戦争前夜の昭和舞踊界は「黄金時代」

戦争前夜、昭和初期の日本舞踊界は「昭和の舞踊黄金時代」とも呼べる盛況ぶりで、シーズンによっては連日連夜、どこかで舞踊会が行われているような状況でした。

当時、活躍していた舞踊家の一例を挙げると、

・藤蔭静枝(のちの藤蔭静樹(せいじゅ)。藤蔭流創始者)
・二代目・花柳壽輔(じゅすけ)
・花柳珠實(のちの五條珠實(たまみ)。五條流創始者)
・花柳寿美(すみ)
・藤間勘素娥
(かんそが)

など、枚挙にいとまがありません。

新しい日本舞踊を生み出そうという「新日本舞踊運動」まっさかりで、新作が続々と発表されていました。

舞踊家だけでなく、いわゆる「町の師匠」たちが自分の会を持ち、次々と温習会など発表会を開き始めたのもこの頃で、舞踊会は増える一方でした。

戦争前夜の日本舞踊界は、かつてないほど栄えていた、といえるでしょう。

国策に飲み込まれる舞踊界(大日本舞踊連盟)

戦況が進むにつれて、国を挙げての戦争に、日本舞踊も飲み込まれていきます。

ひとつの象徴的な出来事は昭和16年の「大日本舞踊連盟」の結成です。

それまで、「日本舞踊協会」という業界団体があったのですが、(いまの日本舞踊協会とは別)これは解散させられてしまい、警察の管理下にあらたに「大日本舞踊連盟」が結成されます。この団体は日本舞踊だけでなく、洋舞も含む団体で、日本舞踊は「日本舞踊部」と「新日本舞踊部」の二部が設けられました。

警察の管理下になぜ「大日本舞踊連盟」が組織されたかというと、国が舞踊界を管理したい、という意図があったからです。その背景には「舞台でも国家に対する責務を果たすべきだ」という考えがありました。

日本舞踊活動が国の許可制に

大日本舞踊連盟ができる前年の昭和15年から興行取り締まり規則が改訂され、舞踊家の活動には警視総監が認めた「技術者証」が必要となりました。また興行は「国民精神ノ涵養又ハ国民智徳ノ啓培ニ資スル」ことが必要とされ、「思想、素行、経歴其ノ他不適当ト認ムルモノ」には「技術者証」を発行しないとされました。

要するに、国策に沿わない活動をしてはいけないし、した場合は芸能活動ができるなくなるよ、ということです。

戦時色の強い番組になり、禁止される演目も

具体的には、舞踊会にも軍部の目が光るようになり、取り上げる演目も、恋愛ものは禁止、逆に軍国主義礼賛の演目を取り入れざるを得なくなるなどますます戦時下の様相を帯びてきます。

例えば、昭和17年2月に日比谷公会堂で行われた大日本舞踊連盟主催の「献金舞踊大会」を見てみましょう。出演者は藤枝静枝、花柳寿美、花柳徳兵衛、藤間喜与恵、西崎緑ら多彩な顔触れ。演目は「靖国神社」「東亜の花」「あかつきの決死隊」など戦争色の強い作品が見られます。

各地で慰問公演なども行われておりましたが、昭和19年ごろには戦争の激化により舞台どころではなくなり、公演も行われなくなります。

子供たちと戦争~学徒動員・疎開

大人たちだけではなく、子供たちも戦争に巻き込まれていきます。

学徒動員

学徒動員とは、戦時下の労働力不足を補うため、学生でも軍需工場や食糧生産に駆り出されました。学生であるにも関わらず、労働が義務付けられたのです。

学童疎開

またアメリカ軍による空襲が激しくなると、強制疎開が始まります。疎開とは、空襲を避けて都市部から地方へ一時的に転居することです。家族で疎開することもあれば、子供たちだけで行かなければならい事もありました。戦況の変化によって何か所も転々とさせられる子供たちもいました。

五大流派の一つである花柳流の家元、三代目・花柳壽輔(じゅすけ)も疎開を経験した一人です。

三代目・花柳壽輔と戦争

花柳家は東京の木挽町(銀座のあたり)に家があり、三代目・壽輔は当時、小学生で渋谷の青山学院へ通学していましたが、戦況の悪化により、伊豆の湯ヶ島へ疎開します。子供たちだけの集団疎開でした。このときは家族にも面会できなかったそうです。

やがて関東への空襲が激しくなるにつれて伊豆上空を爆撃機が行きかうようになり、壽輔は信州、さらに富山へと一家で疎開します。このころ、東京木挽町の家も空襲で焼けてしまったそうです。さらに1945年8月1日には富山大空襲に遭い、疎開先を焼け出されてしまうという経験をします。まさに死体を乗り越えてという壮絶さだったようです。三代目・壽輔は著書「柳緑花紅」の中で、当時を振り返ってこう記しています。

 

それはもうたいへんな惨状で、それこそ死体を乗りこえ乗りこえ逃げた記憶があります。父もいっしょだったのですが、男は全員町内に残らなければいけなかったので、私と祖母と母とで逃げたのです。そうして田んぼの小川で寝たのですが、空襲が終わっても、父がどこへ行ったか分からないのです。(中略)

私たちも田んぼの中にいるところを父に救け出されたのです。でも、そのとき、父はそんなにうれしそうな顔をしませんでした。家族の見つからない方々とごいっしょでしたから、手放しで喜んでみせるわけにはいかなかったのでしょう。(『柳緑花紅』より)

 

幸いにも花柳家は一家全員が無事で、終戦後は東京へ戻り、二代目・壽輔はまもなく「花柳流舞踊研究会」を再開し、花柳流、そして日本舞踊界の復興へ尽力します。

大人たちと戦争~出征・慰問隊・奉公隊

戦争中、国内での日本舞踊活動は、前述のよう制限がされていました。一方で各地で自発的に、または大日本舞踊連盟の管理下の元、「慰問隊」「奉公隊」といったものが組織され、軍需工場などで働く人々や、これから出征する方々へ舞踊で慰問を行っていました。

名古屋で活躍し、「名古屋をどり」を確立したことで有名な二代目・西川鯉三郎もその活動を行っていた一人です。

当時、食料に続き衣類まで配給制になっており、西川流が基盤を置いていた名古屋の花柳界も「客に酒何本の割り当て」「芸者は足袋をはいてはいけない」など締め付けが厳しくなり客足が遠のいていきます。「ぜいたくは敵だ」ということで高級劇場も閉鎖に追い込まれていました。名古屋で有名な「御園座」も当時、休場を余儀なくされています。

 

そのころ七十人いた名取は、しかたがないから陸軍経理部へ仕事に出かけることになりました。半分ずつの交代制で、あとの半分は軍需工場へ慰問に行くのです。(『鯉三郎百話』より)

 

鯉三郎は慰問隊「西組」「川組」を作り、名古屋を中心に慰問活動を行います。時には汽車に乗って岐阜や三重まで出かけて行ったそうです。交通手段もままならない中、名古屋市内の移動は徒歩、工場のトラックが迎えに来ればいい方で時には消防車が迎えに来たこともあるそう。

玉砕の島へ出征を見送る

鯉三郎の回顧録でとりわけ目を引くのは、出征する兵士たちの見送りです。少し長いですが、引用します。

私たちが「三階節」や「木曽節」など民謡を踊ったところ、兵隊さんはもう夢中。みんな一緒に手拍子をとりながら歌い出すのです。それはサイパンへ出発する歩兵六連隊のある舞台を慰問に行った日のことでした。

舞台が終わって、楽屋代わりのテントの中で、

「ああ、喜んでもらえたんだ」

と思いがかなった満足感を抱きながら帰り支度をしていました。すると不意にテント張りのすき間から何本も何本も、手が出ているではありませんか。驚く私たちに

「慰問ありがとう。だれでもいい、手を握ってくれ!」。

舞台を見ていた兵隊さんたちなのです。そして明日は戦地へ行く兵隊さんなのです。

顔は見えないけれど、その手の熱さ。もう全員が一生懸命になって、何度も、何度も握りしめたのでした。

「ありがとう、ありがとう」。

名残のつきない別れの声。別れの手。その部隊は翌日<玉砕の島>へ出発していくのでした。(『鯉三郎百話』より)

 

これから戦場へ行く、ということは、命を落としに行く、というのとほぼ同じ意味です。出征を踊りで見送る、というのはどういう心境だったのでしょうか。

鯉三郎も花柳家と同様、空襲により家を焼失し、三重に疎開します。しかし家から毎日のように名古屋に通い、慰問はなんと終戦前日まで続けられました。鯉三郎はじめ西川一門の結束の強さと、踊りで人々の役に立ちたいという強い信念がそうさせたのだと思います。

慰問を行った、出征を踊りで見送ったという話は日本各地にあります。こちらは読者の方から寄せられた戦争中のお話です。

軍隊へ送り出すときに日本舞踊で送り出していた。(静岡県・取立親師匠から)

満州へ慰問へ行った。(高知県・先輩から)

軍隊に慰問に行ったことがある。(佐賀県・親から)

こと、海外へ慰問に行った人たちは文字通り命をかけて渡航しています。

 

身の危険を犯して最前線にまで繰り出すもの者もあり、銃後は銃後で将兵の宿舎や兵営、さては軍需工場、農山漁村にいたるまで移動隊の一員となって飛び歩いた。戦争が激しくなると、舞踊家も舞扇を投げうって、ぞくぞくと徴兵され、徴用された。すべてが戦時色ひといろである(日本舞踊大系 花柳流より)

 

昭和19年ごろになりますます戦況が悪化すると舞踊会も行われなくなり、また都市部では舞踊家たちの疎開による流出により空白地帯となっていました。まさに日本舞踊どころではなくなっていったのです。

戦後復興~人々を勇気づける舞踊家たち

太平洋戦争は昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎えました。その年3月の沖縄戦、8月5日の広島、8月9日の長崎への原爆投下が直接のきっかけになったと言われています。昭和天皇がラジオでポツダム宣言の受諾を宣言をした「玉音放送」は有名です。

こうして、310万人ともいわれる戦没者、膨大な犠牲を払った戦争は終結したのです。

さて、当時、多くの舞踊家たちは空襲の激しかった東京など都市部を離れ地方へ疎開していました。したがって、多くの舞踊家は疎開地にて終戦を迎えました。

終戦にはなりましたが、みんながすぐ都市に戻れたわけではありません。都市は度重なる空襲で焼け野原と化してしましたから、家も焼け出されている、という師匠もたくさんいたのです。

しかし、終戦後の人々を少しでも勇気づけようと、そしておそらくは、なにより舞踊家としての存在意義を示さなければ、という気概から、終戦直後から各地で舞踊会が開かれます。

各地で開催される舞踊会

おそらく、終戦後はじめての大規模な舞踊会としては、前述の名古屋の二代目・西川鯉三郎によって催された「名古屋をどり」でしょう。昭和20年9月に、空襲で焼け残った名古屋宝塚劇場で3日間にわたって行われました。演目は「釣り女」「お夏狂乱」、歌謡舞踊など。公演は超満員だったそうです。鯉三郎はのちに「人々の娯楽に飢えた心にきっと私たちの踊りが触れたのではないでしょうか」と振り返っています。

 

関東では終戦の翌月、昭和20年10月に前橋にて七代目・坂東三津五郎、七代目・松本幸四郎(三代目・藤間勘右衛門)、若柳吉佑(のちの若柳寿慶)らによって、こちらも3日間にわたる舞踊会が催されています。いずれも前橋や館林、磯部温泉などへ疎開していた役者、舞踊家らが声を掛け合って実現しました。地方は前橋の芸者さん、鳴り物も自分たちで、衣裳は東京の三越から残っていた着物を調達するなど、工夫を凝らした公演だったようです。演目は、「操三番叟」「保名」「傀儡師」「橋弁慶」「松の羽衣」「釣り女」でした。

 

同じく10月に東京・日比谷公会堂でも西崎緑が女優の杉村春子、ソプラノ歌手の長門美保らとともに歌と舞踊の公演を行っています。

このような舞踊会は大なり小なり各地で行われていたようで、戦争により憔悴した人々の心を勇気づけたに違いありません。

ここから徐々に舞踊界も復興に向かっていくわけですが、戦争の残した傷跡もまた、大きなものがあります。

戦争の傷跡(空襲・戦災による被害、若手の廃業)

戦争によって亡くなった人々

いわずもがなですが、徴兵され戦地で命を落とされた方、空襲によって亡くなった方など日本舞踊家、また習われていた方々にもありました。前述の鯉三郎も、慰問隊の仲間を空襲で亡くしたと記しています。命まで落とさなくても、空襲で家を焼かれた人も多く、戦後になってもしばらく稽古場はおろか、住むところにも困るといった人は少なくありませんでした。

衣類、舞台道具、資料などが多数失われる

資料の散逸、空襲による焼失もありました。花柳家では疎開先まで持って保管していた数々の資料、その中には花柳流の初代の手によるものも多数あったようですが、それらが空襲により焼失しています。

着物なども物資の不足により入手が困難になり、公演をするにも、衣裳や道具などあるものの中でできるものを、という発想で番組を組んでいました。

若手舞踊家の廃業

戦後活躍した舞踊家の多くは、戦前からすでに第一線で活躍していた舞踊家が多かったといます。つまり、多くの若手が、戦争をきっかけに廃業したり、舞踊家の道を諦めたりしたのです。

戦後の不景気で仕事は少なく、のちの著名人たちも多くがこの時期、失業を経験しています。戦中戦後の空白期間が、新人の進出を阻んでしまったと言えます。

戦争がきっかけになって起きた動き

戦後新しく起こった動きもあります。

それは流派を越えた結束と民主化の流れです。

流派を越えた結束

それまで、他流派と一緒に公演をするなどはまず考えられないことでしたが、戦後はその流れに変化が起こります。

戦後、東宝のあっせんで結成された「日本舞踊家集団」は各流派の舞踊家で形成されており、異なる流派が同じ舞台に立つなどそれまでにあまりない動きが生まれ始めました。

民主化の動き

また新流派の設立も珍しくなくなり、若柳流からは理事会制をとる「正派若柳流」が生まれました。これも従来の封建制的特色の強い慣習から、民主的な空気が生まれてきた流れであると考えられます。

戦争を二度と起こさないために、まずは知ること

これまで、戦争下の日本舞踊家たちの暮らし、戦争が日本舞踊界に与えた影響、終戦直後の日本舞踊家たちの活動などを見てきました。当時の状況を、少しでも身近に感じられたでしょうか?悲惨な戦争を二度と繰り返さないためにも、まずはどんなことが起きていたか、知ることが重要だと思っています。

私たちが楽しく日本舞踊を続けられている幸せを噛みしめながら、終戦記念日の今日は、私たちの先人に思いをめぐらせてみましょう。

俺の日本舞踊では、引き続き「日本舞踊を通じた平和教育」を継続していくため、読者の皆さまから戦争に関するお話、資料などを募集しております。詳しくはこちら👇

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参考文献

日本舞踊協会・編「日本舞踊総覧」 日本週報社 1952
江口博ら「日本舞踊大系 正派若柳流」 邦楽と舞踊社 1966
江口博ら「日本舞踊大系 花柳流」 邦楽と舞踊社 1966
荻誠「鯉三郎百話」中日新聞社 1973
三世・花柳壽輔「柳緑花紅」 善本社 1973
西形節子「近代日本舞踊史」 演劇出版社 2006

お話を聞かせてくださった先生方

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