日本舞踊に関するお困りごとを送る 問い合わせ
若柳吉蔵,吉三郎とおわら風の盆の変化概観

若柳吉蔵,吉三郎とおわら風の盆の変化概観

毎年20万人余が訪れる、富山を代表する伝統行事「おわら風の盆」は江戸時代から300年以上続くと言われている。毎年9月の1日から3日まで夜通し町中を踊りながら練り歩く。唄と囃子方、三味線、太鼓、そして民謡には珍しい胡弓の音色が哀愁を誘う。編み笠を被るのも特徴のひとつで、人前で踊るのがはしたないとされた時代の、照れ隠しの名残だろうとされている。哀愁漂う音楽、艶やかな振り、深くかぶった編み笠、「風の盆」という不思議な名称、それらがあいまって好奇心を掻き立てられる行事である。

昭和の新踊りが東京三越で評判に

画像引用:富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ

「おわら風の盆(以下、おわら)」が現代まで継承されている一つの要因は、昭和4年、画家であり歌人の小杉放菴(ほうあん)が書いた詩と、日本舞踊家 若柳吉三郎(きちさぶろう)による振り付けによって生まれた「新踊り」が、東京で高く評価されたことにある(今風に言えば『シン・おわら』ともなろうか)。

東京三越で行われた富山物産展にて披露された「シン・おわら」は大好評を博し、保存会の誕生や、改良運動、その後幾たびか訪れる「おわら風の盆ブーム」へとつながっていく。

ステレオタイプか変化か。300年続くおわらは「変化」を選んだ

結果からいえば大成功だったが、新しい詩と振り付けにはリスクもあった。それは、土着性の高い芸能を現代風に変容させることに伴うリスクだ。

小杉放庵は小唄や都々逸にも通じ、都会風の詩を書いた。吉三郎もそれに合わせて振りをつける。

当時、民謡や民舞における土着性、要するに「田舎臭さ」は都会人に受け入れられる上で重要であり、下手に都会風にすると「都会気取り」と受け取られかねず、新作おわらでも、衣装にモンペを取り入れようとする意見すらあったらしい。モンペは都会人にとっての「田舎臭さ」の象徴だったのだ。都会人の「田舎趣味」に付き合うことも(これまた今風に言うと、マーケティング的に)重要だったのだ(今聞けば馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、『江戸◯◯』とか『京都◯◯』とついているだけで、ロクに検証もせず、なんだかありがたく感じてしまう我々の感覚もこのころとあまり変わっていないのかもしれない)。

今風にアレンジしてなおも受け入れられないとなると目も当てられない。しかし、放菴と吉三郎による新踊りは八尾の方々によって見事に演じられ、公演は大成功となったのである。

単純素朴な田舎風を選んでいれば、それはそれで受け入れらたかもしれないが、想像の域を超えず、やがて埋もれてしまったかもしれない。

旧踊り誕生のきっかけ若柳吉蔵、新踊りの若柳吉三郎

▲三越の富山県物産展出演を伝える当時の新聞記事(八尾おわら資料館 より)

新踊りを振り付けた若柳吉三郎は明治から昭和にかけて活躍した日本舞踊家(1891(明治24)年~1940(昭和15)年没)。初代若柳吉蔵(若柳流二代目家元)の、高弟である。新進気鋭の舞踊家として知られており、特に「紀州道成寺」への初の振り付け、テーマにスポーツを取り入れ、形式も演劇と舞踊の中間を狙った「ラグビー」などの創作で知られる。

吉三郎はその婦人、若柳光(吉美津)とともに富山の花街へたびたび稽古指導に来ていた。そこで、(のちに新踊りの詩を書いた)小杉放菴と知り合い、その仲立ちで、八尾でおわらの振興に尽力していた人物、川崎順二と出会う。川崎は八尾の医師で、私財を投げ打っておわら振興に尽くしたことから、「おわら中興の祖」と呼ばれる人物である(なお、八尾にある『おわら資料館』は川崎の自宅跡に建てられている)。吉三郎は川崎から、東京三越の富山物産展に合わせて、新しい踊りをつくることを依頼された。

吉三郎は新しい振りの創作のために40日にわたって八尾に滞在し、その自然や人々の生活を体感し、「新踊り」を完成させた。吉三郎は当時、若柳流の幹部として多忙を極めていたはずだが、なぜ40日も八尾に滞在できたのか、そこまで深く関わろうと決めた理由は何か、詳しいことはわからないが、相当の力が入っていたことは間違いない。吉三郎の振り付けには、女性が蛍を眺める様子、養蚕の様子(八尾はかつて製糸業で栄えた)、八尾を流れる井田川の魚を眺める様子、美しい景色を楽しむ様子などが描写されていたという。

若柳吉蔵や若柳吉三郎が活躍した時代についてはこちらの記事「若柳流(わかやぎりゅう)について解説します」でも詳しく紹介しています。

若柳吉蔵と旧踊り(豊年踊り)

昭和4年、吉三郎が創作に関わった新踊りに対し、さかのぼること大正期にまとめられた踊りを豊年踊り、または旧踊りという。この旧踊り成立には、先に紹介した若柳吉蔵が関連している。

大正2年、博覧イベント「共進会」が開催された。富山県、鉄道、港湾、新聞社が一丸となって開催した大規模な催しで、富山県は県予算の1割強の経費を、このイベントに投じたという。富山の産業振興、開発をPRする目的で披露された「富山踊」の振り付けを担当したのが、若柳吉蔵だ。「富山踊」は三部構成からなり、その一つが「小原節踊」であった。いまの「おわら」とは大きく異なり、富山の芸者に海女の格好をさせ、背景には蜃気楼やホタルイカを電飾で表現する、というようなものだったらしい。いまなら、最新のプロジェクションマッピングで舞台演出を行なった、というところか。

しかし、地元の人たちには不評で、逆に対抗心から八尾の花街・鏡町を中心に資金を募って「豊年踊り」が作り上げられた。豊年踊りには「かっぽれ」や「深川」が取り入れられている。これは花街の旦那衆の趣味が反映されている。

若柳吉蔵の名誉のために付け加えるが、「富山踊」の世間の評判は上々だった。おわらの歴史的文脈を共有する地元の方々と、それを知らず目の前の舞台を楽しむ観客とでは、解釈が分かれて当然であり、むしろ富山の魅力を伝える、という依頼主の目的を達成した、優れた振付家への正当な評価と言えるだろう。

豊年踊りの成立についての詳細は、以下の論文にあたってほしい。

地域芸能の改造と博覧会的空間」(長尾洋子,人文地理 第61巻第 3 号(2009))

おわらが「見せる行事」へ

新踊りに話を戻す。「東京三越での成功」という出来事が起こしたもう一つの大きな変化は、おわらが「見せる行事」としての比重が増したことだ。共進会の時、すでに小原節踊が「アトラクションとして見せる」役割を担っていたが、どちらかというと共進会ありきで一方的に制作されたものであるのに対し、川崎の主導であったとはいえ、八尾の方々が自律的に作りあげた新踊りの東京三越での成功は、観光資源としてのおわらの方向性を決定づけたのではないだろうか。

担い手の心境にも変化

富山のローカルテレビである、チューリップテレビ制作のドキュメンタリー映像がある。

 

▲ひとすじ〜おわら風の盆

ここに登場する柴田さんは、おわらに打ち込むきっかけとして、観光客から投げかけられた「あんまり上手じゃないね」という言葉によって、一念発起、時に週40時間もの踊りの稽古に、熱心に励むようになったという。ここには、自分のため、所属するコミュニティのためのおわら、というだけではなく、(観光客に)「見せるおわら」が強く意識されている。個々人が伝統行事にコミットメントする理由はさまざまであり、伝統が継承される根拠もさまざまである、が、「見せる行事」つまり、「観光資源としてのおわら」となったからこそ、柴田さんのようなきっかけでおわらをより良くしようと努力する人が生まれ、また、大きく言えば自治体や国のさまざまな支援を活用できるようになった側面も大いにあるだろう(毎年のおわらには約20万の観光客が訪れており、3年ぶりに開催となった2022年はコロナ禍であったにも関わらず12万人が訪れている。再開にあたっても自治体からの支援があった)。

とくに昭和の東京三越での公演成功あたりを境に「見せる行事」「観光資源」としての側面が大きく立ち現れてくる。それを成立させたのは「現代」の文学や舞踊の受容であった。そもそもおわらが江戸時代から続いているのは確からしいが、楽器の音楽がついたのも、踊りがついたのも、明治維新以降のことで、明治維新以前も、すでに幾たびもの変化を経てきていたであろう。したがって、いま目にしているおわらの原型は、せいぜい100年程度の歴史だ、と言えなくもない。

「観光化」と継承の因果関係

「観光化」とおわらの継承にどこまで因果関係があるかについて明確にすることが難しい。おわらは終戦直後の昭和26年ですでに7万人の観光客が訪れていたらしく、いまでは毎年20万人余が訪れている。しかし、八尾には、9月の「おわら風の盆」と5月に行われる「曳山祭り」以外に観光資源が多いとは決して言えず、宿泊施設や飲食店、観光客向けの小売店なども少ない。雨天になれば規模縮小、中止を余儀なくされる。両イベントが八尾に与える経済効果は限定的で、経済インセンティブが伝統の継承に与える影響もまた、限定的と見るべきだろう。ただ、大勢の人に見てもらえることがモチベーションにつながることは先のドキュメンタリーの例を見ても明らかであるし、経済的インセンティブも富山市、富山県の規模でみれば、そのプラス効果は明らかだ。自治体からの直接、間接の支援が継承に大なり小なり影響を与えていることは確かだろう。

変化する伝統。その根底にある情熱や愛情を見つめる眼差し

江戸時代にルーツがある「おわら風の盆」は、明治維新以降から昭和初期にかけて、大きく変化してきた。外部の文化人、鉄道などのインフラ整備、観光需要などさまざまな影響を受けつつ、地元の方々の情熱や愛情を背景に、自律的に伝統の革新が行われ、魅力ある文化が育まれてきたといえるだろう。

越中八尾観光協会のHPにはこう記されている。

300年間もの時代の流れに従いながらも志を変えず、先輩の情熱やおわらに注いだ愛情を変えず、時代に合わせて綿々と踊り継いできたからこそです。伝統を受け継ぐということは、たゆまぬ創造がなくてはなりません。

新踊りを振り付けた吉三郎は、その数年後に再び八尾を訪れたとき、すでに角が取れて振りが変わった新踊りを目にした。それを見て吉三郎は「これが自然の流れだ。これで踊りが八尾のものになった」と喜んだという。

重要なのは、古いものを盲目的に「伝統だから素晴らしい」と礼賛するのでもなく、「田舎臭さ」を安易に消費するのでもなく、また、「変化しているから大した伝統ではない」と揶揄するのでもなく、たゆまぬ創造の結果の、その根底にある情熱や愛情を見つめる眼差しを持ち続けることではないだろうか。

参考サイト
富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ
越中八尾観光協会
地域芸能の改造と博覧会的空間(長尾洋子,人文地理 第61巻第 3 号(2009年))
民俗芸能における真正性と伝承方法に対する一考察(田邊元,『現代民俗学研究』第 6 号(2014 年 3 月))
富山市八尾の民俗芸能「おわら」の伝統と観光化(竹内潔,地域生活学研究(2010年3月))