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日本舞踊の流派一覧まとめ【解説・HPリンク付き】

日本舞踊の流派一覧まとめ【解説・HPリンク付き】

日本舞踊の流派ってたくさんあるっていうけど、具体的にはどういう流派があるの?

そんなあなたに、日本舞踊の主な流派一覧です。

名称、創流、特徴と公式サイトをまとめました。

公式サイトは弊メディアで確認できたものです。分岐して複数存在している流派、流派の中でさらに「〇〇派」と分かれているものについては、確認できたものを掲載しておりますが、すべてを網羅できていない、またはサイト自体が存在しない場合があります。

*このページの情報は、複数の書籍や公式HP等で調査した内容を参考にまとめているものです。掲載を希望する場合、また希望しない場合はこちらからお知らせください(現在、掲載は古典をご指導されている流派に限っております)。
*現在更新中の記事です。内容は随時追加されます。

日本舞踊の流派一覧

五大流派

名称 花柳流(はなやぎりゅう)
創流 1849年(嘉永2年)
特徴 花柳流は日本舞踊の流派の中では比較的新しい流派ですが、現在では2万人以上が所属しており突出した規模を誇っており、門弟や演目の数も非常に多い流派です。

花柳流の特徴は振りが多く「小間(細かい間のリズム)」を重要視していることです。その「小間」が全体に大きなうねりを形成し、花柳流の舞踊をリズミカルで大変華やかなものにしています。このことは手数が少なく、ダイナミックで見ごたえのある藤間流の舞踊とよく対比されています。

また、旋回運動を主とする「舞」よりも跳躍に重きを置く「踊り」を重視していることも花柳流の特徴と言えるでしょう。

>>さらに詳しい解説を読む「花柳流(はなやぎりゅう)について解説します」

公式サイト 日本舞踊 花柳流 公式ホームページ
名称 藤間流(ふじまりゅう)
創流 1704年(宝永元年)
*初代藤間勘兵衛が江戸へ出た年
特徴 日本舞踊の五大流派の一つで、300年以上の歴史を持っています。

現在の藤間流宗家・八代目・藤間勘十郎はテレビ出演も多く、日本舞踊に親しみがなかった人でも藤間流の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。

藤間流には大きく二つの特徴があります。

それは「劇場映えする大きな振付であること」と「宗家と家元の二つの系統に大別できる」ということです。また、感情表現や内から発露する表現を重要視しているのも藤間流の特徴です。

現在、勘十郎派、勘右衛門派、紫(むらさき)派など、藤間流の中にいくつかの主流派があります。

>>さらに詳しい解説を読む「藤間流(ふじまりゅう)について解説します」

公式サイト 宗家藤間流 公式ホームページ – 一般社団法人 宗家藤間会
名称 若柳流(わかやぎりゅう)
創流 1895年(明治28年)
特徴 若柳流は他の流派と異なり、創流当初から花街(東京・柳橋)に基盤を置いて発展してきました。このため、繊細で優美な振付が大きな特徴となっています。

また、早くから地方への進出も積極的に行っていたことから、様々な地域で若柳流が振り付けた踊りが伝わっています。

若柳流は花柳流から分離・独立した流派であることから、花柳流の手数の多さも受け継いでいることも若柳流の特徴と言えるでしょう。

現在、「若柳流宗家(家元若柳吉蔵)」「若柳流宗家(家元若柳壽延)」、家元制を廃し理事会制をとる「正派(せいは)若柳流」など複数の流派が存在します。

>>さらに詳しい解説を読む「若柳流(わかやぎりゅう)について解説します」

公式サイト 若柳流宗家(家元若柳吉蔵)

若柳流宗家(家元若柳壽延)

正派若柳流

名称 西川流(にしかわりゅう)
創流 1688~1704年(元禄時代)
特徴 歌舞伎の振付師である西川扇蔵(仙蔵、千蔵とも)によって創始されました。非常に歴史のある流派です。

歌舞伎色が濃く、感情表現を大切にする流派です。

東京を拠点とする「宗家西川流」、名古屋を拠点とする「名古屋の西川流」などがあります。

公式サイト 一般財団法人 西川流(宗家西川流)

一般財団法人 西川会(名古屋の西川流)

名称 坂東流(ばんどうりゅう)
創流 1804~30年ごろ(文化文政時代)
特徴 坂東流は三世 坂東三津五郎を流祖とする、最も歌舞伎色の強い流派です。

歴代の家元が歌舞伎俳優である坂東流は、単に踊るだけではなく、作品を、常に演劇的にとらえ、“演じる”ことを大切に扱うところに特徴があり、その芸風は折り目正しくいたずらに時流に流されないと評されています。

公式サイト 日本舞踊 坂東流

あ行の流派

名称 葵流(あおいりゅう)
創流 1965年(昭和40年)
特徴 若柳流、尾上流に学んだ初代葵七重(ななえ)により創始されました。

「格調はしっかりした基礎力が生み出すものである」という信念のもと、すみずみまでゆるがせにしない折り目正しい芸風が特徴です。

公式サイト 日本舞踊「葵流」–公式ホ-ムペ-ジ
名称 赤堀流(あかほりりゅう)
創流 1941年(昭和16年)
特徴 名古屋の西川流、初代西川鯉三郎に師事し、門弟の「三羽烏」の一人に数えられ天才児と呼ばれた・赤堀鶴吉によって創始されました。西川流の正統を伝える、というのが流派の基本となっているようです。
公式サイト
名称 秋房流(あきふさりゅう)
創流 2009年(平成21年)
特徴 秋房愚樂(あきふさぐらく)により創流されました。

日本舞踊の可能性を広めるべく古典的技法を守りながらも新舞踊や創作舞踊などの振り付け演出に加え、地歌舞伎」の指導や劇団の振り付け、演出等にも積極的に取り組んでいます。

公式サイト 日本舞踊 秋房流(Facebookページ)
名称 旭流(あさひりゅう)
創流 1980年(昭和55年)
特徴 若柳流、尾上流、葵流を経てきた旭七彦により、創流されました。
公式サイト 公式|日本舞踊 旭流ホームページ
名称 飛鳥流(あすかりゅう)
創流 1980年(昭和55年)
特徴 花柳流で学んだ飛鳥峯王(みねお)により1980年創流。
公式サイト 日本舞踊 飛鳥流
名称 東流(あずまりゅう)
創流 1861年(万延2年)
特徴 吾妻藤十郎が東昶藤を名乗り創流。昭和45年、継承問題により叶流が分岐。
公式サイト
名称 吾妻流(あずまりゅう)
創流 1688~1704年(元禄時代)ごろ
特徴 歌舞伎役者である吾妻藤蔵(とうぞう)が、町師匠としてはじめたようです。三代目以降、しばらく途絶えていましたが、十五世市村羽左衛門の娘である藤間春枝が中興の祖として、吾妻流四代目家元「吾妻春枝(のちに徳穂)」を継承し復興しました。

「初代吾妻徳穂以来、吾妻流はどれだけ女の特徴を出して踊れるか、骨格や体型、衣裳などを総動員して女性舞踊家としての踊りを、という魂でやってきました」とは二代目吾妻徳穂。

公式サイト 日本舞踊 吾妻流
名称 東路流(あずまじりゅう)
創流 1986年(昭和61年)
特徴 市山流で学んだ初代家元東路寿美により創流されました。
公式サイト
名称 泉流(いずみりゅう)
創流 1941年(昭和16年)
特徴 花柳流の分家、花柳徳太郎の長男により創流。徳太郎の父である骨董屋「泉屋徳右衛門」の屋号を踏襲した名、初代泉徳右衛門を名乗りました。

品格と洒脱を備えた芸風で、全国におよっそ2,000人の門弟を持ちます。

公式サイト 日本舞踊 泉流 公式サイト
名称 出雲流(いずもりゅう)
創流 1974年(昭和49年)
特徴 上方舞の名手・神崎ひでに師事した神崎蓉(よう)が「出雲蓉」として独立。東京を中心に地唄舞、独自のパントマイムである「舞夢」の公演を行っています。
公式サイト 出雲蓉 地唄舞・舞夢の世界
名称 市川流(いちかわりゅう)
創流 1850~1900年(幕末明治期)ごろ
特徴 七代目市川團十郎の芸を、市川宗家の舞踊として磨き上げ継承してきた九代目市川團十郎を流祖とする流派。

品格と力強さを兼ね備えた踊りが特徴。

公式サイト
名称 市山流(いちやまりゅう)
創流 1853年(嘉永5年)以前
特徴 大阪の俳優、市山助五郎の弟子で踊りに長けた市山七十郎(なそろう)が振付師に転向して興した流派です。

七十郎の息子には、狂言作者・瀬川如皐、女形の三代目瀬川菊之丞らがいました。
現在、新潟を中心とする宗家、江戸市山流系統、正派、松派系統などいくつかに分かれています。

公式サイト 日本舞踊東京市山流
名称 岩井流(いわいりゅう)
創流 1688~1704年(元禄時代)ごろ(初代岩井半四郎の活躍期)
特徴 歌舞伎俳優の名跡「岩井半四郎」は代々、役者として活躍する傍ら、舞踊でも優れた力量を発揮した人が多く、江戸の町師匠でも「岩井」姓の師匠がしばしばあったそうです。

十代目岩井半四郎(花柳壽太郎の長男)のとき、正派岩井流一門会が組織されました。

一方、五代目岩井粂三郎(九代目岩井半四郎)を始祖とする紫若(しじゃく)派があります。

公式サイト 日本舞踊 正派 岩井流

日本舞踊 岩井流 宗家(紫若派)

名称 内田流(うちだりゅう)
創流 1954年(昭和29年)
特徴 藤間流勘右衛門派から独立した内田るり子によって創流。東海エリアを中心に活動している。
公式サイト 日本舞踊 内田流
名称 梅園流(うめぞのりゅう)
創流 1872年(明治5年)
特徴 毛利家の御狂言師(おきょうげんし。大奥や大名家に参じて踊りを披露したり指南したりした女師匠)の流れをくむとされる流派です。
公式サイト
名称 楳茂都流(うめもとりゅう)
創流 1870年ごろ(明治初期)
特徴 上方舞四流のうちのひとつ。始祖の初代・楳茂都扇性(うめもとせんしょう)は、「能でも、歌舞伎でも、踊りでもない風流舞を」と創流しました。天満に咲く梅に想いを込めて「楳茂都流」と命名。

平成20年、歌舞伎役者の片岡愛之助が四代目・楳茂都扇性を襲名し家元になりました。

サイト 楳茂都流について(楳茂都梅咲HP)
名称 井上流(いのうえりゅう)
創流 1800年ごろ
特徴 上方舞四流のうちのひとつ。現在、京舞の代名詞ともなっている井上流は、始祖の井上サトが、公家の近衛家から「八千代」の名と「近衛菱」の紋をもらって一流を立てたのが始まりです。

三代目・井上八千代がはじめた「都をどり」や、京都五花街(ごかがい)の一つ「祇園甲部」で舞の教授を行っていることでも知られています。四世~五世(現家元)・井上八千代が人間国宝に認定。

公式サイト
名称 楳若流(うめわかりゅう)
創流 1961年(昭和36年)
特徴 楳若勧二郎が創流、頭取である楳若勧助とともに独立独歩で発展させた。1977年(昭和52年)には新舞踊の流派である高嶺流を分流している。
公式サイト 梅若一門公式ホームページ
名称 扇流(おうぎりゅう)
創流 1969年(昭和44年)
特徴 歌舞伎の家柄「音羽屋」の流れをくむ流派です。人間国宝でもある七代目尾上梅幸により創流されました。

2019年から金沢工業大学と、AIによる舞踊の解析プロジェクトを開始するなど、伝統とテックの融合にも取り組んでいます。

公式サイト 日本舞踊「扇流」扇梅芳(ばいほう)オフィシャルサイト
名称 大河流(おおがりゅう)
創流 1865年(元治元年)ごろ
特徴 若狭藩小浜城酒井家に御狂言師として仕えた岩井うめは、奥女中の「大河(おおが)」からその名を与えられました。

うめと婚約するはずだった酒井家家臣・壬生忠治が蛤御門の変で戦死したことをきっかけに酒井家を辞することになったうめは、「大河うめ」として深川芝翫河岸(江東区常磐町)で町師匠となります。二代目はうめの娘よしが継いだが、若くして逝去、大河流はしばらく途絶えていました。

以来、文学博士松本亀松氏の預かりとなっていた大河流は、昭和59年、坂東三津寛郎氏(大河寛十郎)によって継承され、現在に続きます。

公式サイト 日本舞踊・新舞踊 大河流
名称 音羽流(おとわりゅう)
創流 1937年(昭和12年)
特徴 六代目尾上菊五郎の門下に七人組と称される将来を期待された新人たちがいました。その中にはしげる(のちの二代目西川鯉三郎)、琴次郎(のちに初代尾上菊之丞)らとともに、尾上菊蔵がいました。

菊蔵は幼いころから西川喜尾八や花柳壽輔について踊りを学び「地味ではあるがしっかりした芸」と評されていました。菊蔵が俳優を辞めて舞踊で身を立てることを志すにあたって、菊五郎は尾上家の屋号「音羽屋」にちなんで「音羽流」の名を許しました。

公式サイト
名称 尾上流(おのえりゅう)
創流 1948年(昭和23年)
特徴 六代目尾上菊五郎が創流し、弟子の琴次郎(のちに初代尾上菊之丞)に継がせました。それ以来、家元は尾上菊之丞の名を継承しています。現在は四代目尾上菊之丞が家元となり「上品な舞踊、格調の高い舞踊芸術」を掲げて活動しています。

琴次郎(初代菊之丞)は、六代目菊五郎のもとで役者修行をしていたのを、途中から舞踊に専念し、一時は藤間勘十郎門下で学んでいました。菊五郎は尾上流創流に当たり、琴次郎を藤間流から呼び戻しています。その創流の経緯が琴次郎を家元とする披露公演の挨拶の中で語られています。

「私たちは役者で、役者と舞踊家は違う。(中略)三代目のお祖父さん(三代目菊五郎)が、尾上流を作ろうとしていたのを聞いていたので、今度私は、その遺志をついで、尾上流の舞踊の方面をこれ(琴次郎)に預からせて、はっきり役者と振付の別、分業ということを確立させてやろうと思う。子供の時から育てた琴次郎を、永代の藤間に懇望して返してもらったので、これに尾上流二代目の家元を授けることにした」

六代目尾上菊五郎門下からは、
・尾上流の初代尾上菊之丞(琴次郎)
・名古屋西川流の二代目西川鯉三郎(しげる)
・音羽流の音羽菊蔵(菊蔵)
の三家元が誕生したことになります。

公式サイト 日本舞踊 尾上流
名称 花月流(かげつりゅう)
創流 1930年(昭和5年)
特徴 昭和2年の創流以来、古典舞踊の継承を軸に誰もが楽しめる舞踊を目指し、根岸を中心に活動しています。

初代家元の花月兼久は、花柳千代寿の元にいましたが、昭和初期にレコード舞踊や小唄に新境地を開拓し、大衆的な舞踊を目指して花月流を創流しました。昭和3年の毎日新聞の人気投票で第一位だったといわれています。

「花月流」の名は、兼久の弟が経営していた菓子商花月堂に由来しています。

公式サイト 花月祐里ブログ(花月流)
宗家花月流
名称 柏木流(かしわぎりゅう)
創流 1700年代後半(安永~文化)
特徴 四代目市川圓蔵を流祖とする流派です。宗家市川圓蔵、家元は柏木衛門(えもん)の名を継承している市猿派と、柏木琴章(きんしょう)を家元とする琴章派があります。
公式サイト

か行の流派

名称 勝見流(かつみりゅう)
創流 1966年(昭和41年)
特徴 坂東流の分流として出来た流儀です。歌舞伎でも有名な「曽根根崎心中」、「静と知盛」、「団子売」などを振付けした芝居心を大切にした踊りの流派です。

八世坂東三津五郎が名付け親となり、坂東三津之丞の長男(勝見延章、のち嘉之と改名)が初代家元となり、坂東流の替紋である花勝見に因んで勝見流を樹立しました。

公式サイト 勝見嘉之(智之)・日本舞踊教室
名称 川口流 (かわぐちりゅう)
創流 1939年(昭和14年)
特徴 天才舞踊少女の呼び声高く「(六代目)菊五郎を驚嘆させた」とも言われた川口秀子が創流。東西の舞踊を学び独自の境地を開拓しました。特に山村流の上方舞に強い影響を受けています。
公式サイト
名称 神崎流(かんざきりゅう)
創流 1940年(昭和40年)
特徴 芸妓をしながら楳茂都流、山村流など舞踊を厳しく学んでいた神崎恵夢が昭和はじめに創流。上方舞や能の影響を受けた独自の舞を完成させました。東京新橋に稽古場を開き花柳界を中心に上方舞を普及させたところに特徴があります。

二代目家元の神崎ひでは、武原はんとともに上方舞の名手として並び称される名人でした。

神崎流からは閑崎流、滝村流、音枝流、出雲流などが出ています。

公式サイト 地唄舞 神崎流
名称 菊川流(きくかわりゅう)
創流 江戸末期
特徴 毛利家の御狂言師の流れをくむ流派。始祖は六代目坂東三津五郎の弟子であった小三津で、六代目尾上菊五郎も手ほどきを受けたといわれるほどの名手でした。毛利家の奥女中・菊川からその名を与えられ「菊川金蝶」を名乗り菊川流を創流しました。

初代家元の異色の弟子として、鹿鳴館、皇居、上野博物館等で知られる建築家のジョサイア・コンドルがいます。

その後しばらく後継者がおらず途絶えていましたが、1941年(昭和16年)に坂東三代勝が、七代目坂東三津五郎の了解、六代目尾上菊五郎らの推薦の元、二代目家元菊川美代勝として再興し、今にいたります。

公式サイト 菊川流 日本舞踊
名称 工藤流(くどうりゅう)
創流 1937年(昭和12年)
特徴 名古屋西川流・西川倉治門下の西川倉健が、初代逝去後の派閥紛争をきっかけに、自ら新しい舞踊創作を志し独立。工藤倉鍵(くらかぎ)を名乗り創流しました。
公式サイト
名称 五條流(ごじょうりゅう)
創流 1700年代(初代菊五郎の活躍期)、五条珠實(たまみ)による復興:1941年(昭和16年)
特徴 元は初代尾上菊五郎が作った流儀(京都五条の生まれだったから『五條流』と伝えられる)ですが、長く途絶えていました。

その五條流が復興するのは1941年(昭和16年)です。大正時代の新舞踊運動で活躍した花柳珠実(たまみ)が、その功績と将来を期待され、花柳流家元・花柳壽輔の了解の元、六代目尾上菊五郎より「五條流」を託されました。

創作作品をいくつも残し、長唄「惜しむ春」が特に有名です。

公式サイト 五條珠實(三代目家元)
名称 琴吹流(ことぶきりゅう)
創流 1953年(昭和28年)
特徴 歌舞伎役者の二代目市川小太夫によって創流されました。舞踊名は琴吹千草(ちぐさ)です。
公式サイト

さ行の流派

名称 坂本流(さかもとりゅう)
創流 1944年(昭和19年)
特徴 6歳から山村流で地唄舞を学んだ坂本晴江が本名のまま独立してできた流派です。

有楽町の日本劇場、宝塚、松竹での教授、創作舞踊などで活躍しました。

公式サイト
名称 嵯川流(さがわりゅう)
創流 1993年(平成5年)
特徴 西崎流、花柳流で学んだ花柳寿々吉弥が兄・瑳川哲朗の芸名を受け、「瑳川八千代」と改名して創流。東京、千葉を中心に活動している。
公式サイト 日本舞踊 瑳川流の公式ホームページ
名称 五月流(さつきりゅう)
創流 1980年(昭和55年)
特徴 五月千王(せんおう)により創流。坂東流より独立しました。東京、千葉を中心に活動。
公式サイト 日本舞踊 五月流 公式サイト
名称 猿若流(さるわかりゅう)
創流 1624年(寛永元年)初代猿若勘三郎が猿若座を創設。嘉永年間以降、一時途絶える
1941年(昭和16年)再興
特徴 「猿若」の家系は、江戸歌舞伎の祖とされる初代猿若勘三郎から発します。

江戸嘉永年間に一時途絶えていたものを、1941年、花柳輔五郎が花柳流二代目家元・花柳寿輔了解の元、猿若流七代家元・猿若舞雀(ぶじゃく)を襲名し、再興しました。

公式サイト 猿若流 WEBSITE
名称 志賀山流(しがやまりゅう)
創流 元禄(1688~1704年)ごろ
特徴 最古とされる流派の一つで、能の喜多流の囃子方(はやしかた。楽器担当)から振付師になった志賀山万作から始まります。一時衰えますが、歌舞伎役者の中村仲蔵が後ろ盾となり再び栄えます。能を起源とするため、振り付けは古典の中でも特に古格を守る伝承があります。現在、東京と関西に分かれているようです。
公式サイト 伊勢志賀山流(関西)
名称 篠塚流(しのづかりゅう)
創流 1836年(天保7年)ごろ
特徴 振付師であった初代・篠塚文三郎が創流。

山村流と同じく、三世・中村歌右衛門に、高い歌舞伎の振付の才を認められて、篠塚流を立ち上げました。その特徴は「手を伸ばさばあらん限り、足を伸ばすのなら伸びる限り」であったといいます。

三代目の時代に、井上流の「都をどり」と並び発足した「鴨川をどり」の振付を担当。しかしその後、不運が重なり、一時断絶状態となるも、弟子のひとり、島一網が五代目を襲名し、流派を再興しました。現在は六世家元・篠塚梅扇が流派を受け継いでいます。

公式サイト 篠塚流公式HP
名称 深水流(しんすいりゅう)
創流 1985年(昭和60年)
特徴 女優・朝丘雪路は幼いころから日本舞踊をたしなみ、ロックで踊った「曽根崎心中」で文化庁芸術祭賞大衆芸能部門の優秀賞を受賞したことを機に流儀を立てました。

朝丘雪路の父で日本画家・浮世絵師の伊東深水にちなんで深水流と命名されました。

公式サイト
名称 瀬川流(せがわりゅう)
創流 1772~1781年(安永年間)ごろ
特徴 歌舞伎役者の二代目瀬川菊之丞は後年、瀬川仙女(せんじょ)を名乗り、瀬川流の祖となりました。以降町師匠に瀬川を名乗るものがありました。
時代は進んで1955年(昭和30年)、145年という空白期間を経て、吾妻流で学んでいた吾妻春和が二代目・瀬川仙女を襲名しました。瀬川流宗家の六代目菊之丞とその母から伝承のために、と望まれたものです。
公式サイト
名称 扇崎流(せんざきりゅう)
創流 1962年(昭和37年)
特徴 家元扇崎秀薗(しゅうえん)は幼少より舞踊、清元を学び、市川猿翁、七代目・坂東三津五郎、地唄舞の神崎ひでらに師事しました。二代目秀薗は国立歌舞伎俳優養成所を出て中村歌右衛門門下にて中村歌司を名乗っていましたが、父である初代秀薗の急逝により、日本舞踊の世界へ戻り、二代目秀薗襲名しました。
公式サイト
名称 川勝流(せんしょうりゅう
創流 1955年(昭和30年)
特徴 京都府亀岡市にて初代家元・川勝康也によって創流された。現家元は三世・川勝康智也。古典は元より創作舞踊も各稽古場(京都・東京)にて指導。「川勝」の名称は、一滴の雫がいずれは大河へと流れていく様を流派の繁栄になぞらえていることも由来の一つ。
公式サイト

た行の流派

名称 高澤流(たかさわりゅう)
創流 1953年(昭和28年)
特徴 上方舞を楳茂都陸平、歌舞伎舞踊を六代目藤間勘十郎、そのほか舞楽や能楽を学んだ高澤淑(よし)によって創流されました。

古典、創作のほか、舞踊のリハビリテーションへの活用にも長年取り組み、活動しています。

公式サイト 日本舞踊 高澤流
名称 宗家立花流(そうけたちばなりゅう)
創流 1958年(昭和33年)
特徴 歌舞伎役者の八代目・市川中車(ちゅうしゃ)が初代宗家・立花中車を名乗り創流。大正・昭和の新舞踊運動において初代・西崎緑(みどり)の振付・演出を手掛けるなど古典にとどまらない新時代の日本舞踊の発展に貢献しました。
公式サイト 日本舞踊 宗家立花流

な行の流派

「中村流」は五つありますが、それぞれ起源を異にする流派です。

名称 中村流(歌右衛門系)
創流 1804年~1830年ごろ(文化・文政期)
特徴 三世・中村歌右衛門を流祖としている流派です。歌舞伎舞踊の特色が色濃く出ているという特徴があります。関東を中心に五都県に稽古場を持ち活動しています。
公式サイト 日本舞踊 中村流
名称 中村流(弥八・虎治派)
創流 1764~1781年ごろ(明和・安永期)
特徴 江戸中期に活躍した笛師で、振付にも才能があった中村弥八を祖とする流派です。家元は男性は弥八、女性は虎治を名乗ります。江戸歌舞伎の古い伝承を持つ珍しい流儀です。
公式サイト
名称 中村流(冠子系)
創流
特徴 中村勘三郎、中村伝九郎らによって継承されてきた流派。「冠子」は彼らの俳名から。1851年(嘉永4年)に一度途絶えましたが、1943年(昭和18年)吾妻徳穂の弟子、春志(はるし)が八代目・中村冠子を襲名して復興させました。
公式サイト
名称 中村流(勘弥派)
創流 1804年~1818年(文化年間)
特徴 大坂の歌舞伎振付師の系統。初代・中村シカが歌舞伎所作事を学んで創流しました。戦後、廃絶の危機にありましたが三代目の弟子が家元を襲名し復活しました。
公式サイト
名称 本伝中村流
創流 1731年(享保16年)
特徴 「娘道成寺」で大当たりしたことで知られる、初代・中村富十郎を祖とする流派です。
公式サイト
名称 七々扇流(ななおうぎりゅう)
創流 幕末~明治にかけてのころ?
特徴 田安徳川家の御狂言師(おきょうげんし)・七々扇小橘(ななおうぎこきつ)が興した流派です。小橘は市山流の祖、初代・市山七十郎(なそろう)の養女で、勝海舟と知遇を得て「七々扇」と命名してもらったそうです。創流から横浜に地盤を持ち、劇場や花柳界を中心に活躍しました。
公式サイト 和なびブログ(家元によるブログ)

は行の流派

名称 花井流(はないりゅう)
創流 1650年ごろ?(江戸前期)
特徴 江戸時代前期の歌舞伎役者、初代・花井才三郎が流祖と伝わっています。
公式サイト
名称 花川流(はなかわりゅう)
創流 江戸後期
特徴 江戸時代後期の振付師で、初代・宝山左衛門の子、花川蝶十郎が流祖と伝わっています。
公式サイト
名称 花園流(はなぞのりゅう)
創流 1946年(昭和21年)
特徴 花園流はモダンダンスから日舞を修めた花園歌子(のちの環伎(たまき))が立ち上げた創作日本舞踊の草分け的流派です。

歌子はモダンダンスを学び浅草で踊り子となったのち、新橋で芸妓となり「モダン芸者」として評判になりました。

創流当時「花園流の特色は、わが国新舞踊家の大半が邦舞より出発、のち洋風を注入したのに反し、まず洋舞よりいでてのち日本舞踊の長を採入れし点にあり」と評されています。

公式サイト
名称 花ノ本流(はなのもとりゅう)
創流 1957年(昭和32年)
特徴 「花ノ本」という名跡の歴史は古く、室町時代の連歌興隆期の代表者、飯尾宗祇(いいおそうぎ)にまでさかのぼります。飯尾宗祇はその功績をたたえられ後土御門(ごつちみかど)天皇から「花ノ本」の名を授かりました。その名は連歌師たちが神社や仏閣の花の下で興行を行ったことに由来します。

日本舞踊・花ノ本流の発端は、十四世・花ノ本翠と松本市の舞踊家・花柳太衛蔵(のちの花ノ本流流祖・花ノ本葵)との交流に始まります。二人は東京で日本舞踊の流派を興すことを発案し、太衛蔵氏は長女以知子(のち初代家元)と上京して神楽坂の若宮神社にて名取式を行い、事実上の創流を行いました。

公式サイト 花ノ本壽 日本舞踊教室(家元)
名称 英御流(はなぶさごりゅう)
創流 1971年(昭和46年)
特徴 二代目・花柳壽輔、歌舞伎役者の市川河之助(かわのすけ)に師事した流祖・冠翁(かんおう)が1971年に創流。河之助の次女であり妻である寿花(ひさか)を初代家元 としました。二代目家元の寿光(ひさてる)は、人間国宝、七代目・中村芝翫の元でも研鑽を積みました。
公式サイト 日本舞踊 英御流
名称 林流(はやしりゅう) きむ子系
創流 1924年(大正13年)
特徴 主に西川流で学んだ、林きむ子によって創流されました。初代は児童舞踊に力を注ぎ、新古典舞踊ともいうべき作品を多く残しています。
公式サイト 林一枝(三代目家元) Instagram
名称 林流(はやしりゅう) 又一郎系
創流 1951年(昭和26年)
特徴 初代・中村鴈治郎の長男で舞踊に才があった林又一郎が創流しました。又一郎の孫で、長谷川一夫を大叔父に持ち、舞台俳優としても活躍する林与一が代表、花柳壽晃の子で又一郎の芸養子となった林啓二が分家となっています。
公式サイト 林与一 Twitter
林啓二
名称 廣川流(ひろかわりゅう)
創流 明治時代(1868年~1912年)
特徴 徳川家の御狂言師だった歌川こいが明治期に創流しました。廣川流の名は、こいが幕末の舞踊家、廣川男女太郎(ひろかわおめたろう)の流れを汲んでいたことに由来し、こいは二代目家元を名乗っています。
公式サイト
名称 藤流(ふじりゅう)
創流 1985年(昭和60年)
特徴 坂東三栄昌の娘、坂東三智栄(みちえ)が創流しました。
公式サイト 藤流 日本舞踊教室 宗家 藤 三智栄 家元 藤 三智愛

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